帰路のひと時徒然に・・・今や「憧れ消費」は消滅したのか。
通常の通勤路に渋谷がある。比較的若者が多くみられ、コロナがまん延している中でも、「はりきって25時までお酒飲めます」とか「朝まで頑張って営業!!」といった言葉が躍っている。
そのような街を足早に私鉄の駅に向かっていると、ふと目に入った大きな店の看板。「100円ショップ」オープンの案内であった。ダイソーである。時間もあり、ちょっと覗いてみる。いやはやと言わせるほどの密な状況。20代と思しき比較的若い人たちが、友人同士であろうか、商品を手にして自分の使用体験談を声高に話している。生活に必需なモノでも、100円で済ますことができる(+税ではあるが)私は、合理性と知性を兼ね備えた賢い消費者なんだと自分に言い聞かせているように見える人もいる。
100円ショップは、 ダイソー/セリア/ワッツ(ミーツ、シルク含む)/キャン☆ドゥ・・・等々、百花繚乱の様相を呈している。さらには3COINSと続くのであろうか。日用品の多くは、コインでの購入がほとんどといった状況も見て取れる生活環境になってきた。
してみると、買い物をすることの「楽しみ」は、どこにあるのだろうか。対象となる商品の分野が異なるので、100均で購入しているものとは当然気分も、また動機も違うことは確かである。しかし、最近の購買行動を見ていると、例えば家電量販店でも、思っていたものを購入すればそれでよしであって、「ついで買い」をしようとする動きが見えてこない。無駄のない消費ともいえようが、あまり楽しみを感じさせない。心に遊びを感じさせない。必要なモノだけ、ただそれだけの買い物、といった風情がある。それでいいのだろうか。
ついで買いばかりが続くと、部屋中が無駄なもので埋まってしまうかもしれない。しかし、無駄があるからこそゆとりもあるのではないのか。自分が育ってきた時代には、憧れ消費というものもあった。「憧憬商品」である。今は買えない。しかしいつかきっと。そのような思いが消費を活性化させていたように思える。先を観ずに今だけを見る。それで果たして良いのか・・・。違うような気もする。