今までも今も、そしてこれからも・・・志は変わらず。
徒然草52段に仁和寺の法師の行動が描かれている。
「仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩より詣でけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
さて、かたへの人にあひて、「年比思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。」
確か高校時代の古文の時間に接した一文であった。徒然草には多くの示唆に富んだ言葉やガイドが多く、往時から個人的にも好きな書のひとつである。
中でもこの一文。今風に言えば『このような僅かなことにも、先達(案内人、リーダー、専門家)は必要なものです。』ということになろうか。
先達のなしたこと、やってきたことを、先ずはやってみて(守)、そこで見つけた自分なりの解釈で修正し(破)、新たなモノへと昇華していく(離)。「守破離」をもってしても、最近はどうも「守」を大切にしていないように感じる。
私は、これからも「守破離」の志で、先達の目指したるを目指していきたい。