人がもつ「感動尺度」が生活センスを高めます。
何を食べても、どこに行っても余り驚きの声を発しない人がいます。最近の10代の若者と話をしていると、特にそのようなことを感じてしまうことがあります。幼い時から、生活環境の中に現在の暮らしを満たすモノが豊富にある中で育ったからでしょうか。新しい出会いに感動をしない。新しい店が新しいメニューや商品を始めたからといって、その内容がかなり前から情報誌に掲載され、実体験のないままに知識だけが吹き込まれています。
まだ見ぬもの、知らぬものを、特段に見たり知ったりするための努力をしようとはしない。何らかの商品や店に対する感想を求めても「別に~」のコメントがかえってきます。不感症的な価値観が蔓延しているのでしょうか。
かといって、自分にとって遠くの存在でありながらも、何となく情報先行でテレビや雑誌がはやし立てると、直ぐに群がる行動も見られます。いつの頃からか、日本人の多くに「感動」という言葉が、その生活辞書から消えてしまったような気がします。
団塊世代に属する私などにとっては、初めて口にしたメニューが、いつどこで、どのようなシチュエーションだったのかも鮮明に覚えているもの。ある面では思い出の中にある多くの感動が、その後の暮らしの判断尺度になっているような気がします。
歳を重ねたから、ということだけがその理由とも思えません。欠乏の中で育ったから、というのも一理あるでしょう。しかし、どうもそのようなモノの乏しい中での関与体験でのみ、感性が高まったわけではなさそうです。個人的なものを見る、感じる鮮度感覚のように思います。
「なんでだろ~」の声を良く耳にしました。「何故」の質問を発して、自らの体験で感動する。その機会と感度が薄れた社会は、どことなく感度の鈍い、無感動な驚きに乏しい社会に思われます。
清野 裕司
株式会社マップス