自分をつくってくれた5人を思って・・・。
今なお笑顔で支えてくれる人には「感謝」しかない。
徒然なるままにとは言えど、自分をつくってくれた5人のうちの一人が、自分の妻であり、その様子を語るのは、いささか面はゆいところはあるが、とは言えしかし、事実として自分を支える妻への想いをここに書き綴ってみようと思う。
私は小学4年生の折に、将来の夢と題した作文に「大きくなったら社長になる」と記述した。社長の何たるかも知らずに、組織のてっぺんにいる人くらいの思いであったのだろう。そのことを秘かに心に置いて、その後の学びの道も考えていたように、今になると思うところがある。
妻とは出逢いの縁を得てすでに半世紀を超えている。かつて敬老の日であった9月15日に結婚式を挙げてからでも、あと数年で金婚式になる。二人目の子どもを授かって半年ほどして私は組織を離れ、自分自身で事業を始める決断をした。その時に妻から言われたことは、「あなたは以前から私に、いつかは独立すると言っていた。そのいつかはきっと今だと思う。行動を起こさないと、あなたはきっと一生後悔することになる。」と背を押してくれた。不明なことが多く不安も沢山あったであろうに、その折も笑顔であった。
その後、私は仕事中心の生活をすることになってしまった。いわば、家庭人としては0点以下の暮らしである。家庭に父親不在の状態をつくってしまった。今振り返っても、家庭人としての自分には点数のつけようすらない。そのような時の刻まれる日々であっても、遅い時間の帰宅に合わせて妻は待っていてくれた。その笑顔が、私の翌日への活力であったことは間違いない。
月例の収入も安定していたわけではない。オフィスを借り、数人の人の手伝いを得、複数のプロジェクトを担当するようになっても、入ってきたお金は、殆どが出て行ってしまい、残された中から自分の分が残っているかどうかを見るのが恒例になってしまった。大波小波の繰り返しで、月によっては懸命に動いたとしても、入金は前月のものである。時に自分の分け前にありつけない時もあった。スマホもない時代である。妻に電話でその旨を伝えねばならない。当時は街角至る所にあった公衆電話から自宅へ。妻の声にむかって「今月はないんだ・・・」という自分。弾んだ声で「大丈夫だよ!!」。返す言葉は何もなかった。
子供も成長した。孫にも恵まれた。共に歳を重ねた。残された時の長さはわからない。今なおデスク前でキーボードを叩き、年齢でいえば自分の半分ほどの方々と共に思考を巡らせるマーケティング・スタッフを継続できている。その背景には、妻の笑顔がいつもある。生活者としてのコメントもある。
私が発することのできる言葉はただ一つ。「ありがとう」だけである。
笑顔に感謝。
清野 裕司
株式会社マップス
