「何だろう(?)」「なんだっ(!)」「何~んだ(~)」が大切。
日本の若者の国語力(読解力)が、先進諸国の標準から見て落ち込んでいるといわれている。自らの頭と言葉で、自らの考えをまとめるクセが幼い時から累積されぬままに成長しているのが現実のようである。スマホとの早くからの付き合いで、情報の受信者になってしまっているのかもしれない。この先の日本語がどうなるかということよりも、意志の疎通と状況の共有の中で営まれる、日常の生活自体がどのようになってしまうのかと考えてしまうことがある。
最近の小学校では、教科書に書かれた文章を、教室にいる同級生と声を揃えて読むということをしていないようだ。言葉の持つ面白さや表現の楽しさを知るのは、耳から入ってくる言葉である。声に出して読み継ごうとして、ふと読めない文字に出逢ってしまい、口ごもる瞬間。その瞬間に何となく難解な漢字が読めてしまうことがあるもの。前後の文脈から読み解く言葉の持つ不思議さとの遭遇である。そのような体験もないままに成長の過程を踏むと、いつ脳を使うことになるのだろうか。与えられたあるひとつの解答と言われる道筋を、さもそのことが正しいように、何の疑念も抱かずに丸呑みをしてしまうのだろうか。かえって危険ではないかと思える。一人ひとりが持つ、人間としての思考の広がりや発想の豊かさを摘み取ってしまうことになるからである。
自分の目の前に現れた現象に「何だろう・・・」の「?(疑問符)」を持たぬ様相は、人間としての進歩を止めてしまうのではないかと思う。その現象が理解できそうな瞬間での「何だっ・・・」の「!(感嘆符)」の時を経て、自分なりの納得の解を得て「何~んだ・・・」と腑に落ちる。理解をすることの瞬間であり、何とも感動的な気持になる時でもある。そのような、驚きや感動をもたぬままでは、進化の節目のない、つるっとした頭になってしまう。思考停止の頭である。
最近の若者が無表情なのも、そんなことが原因なのかと、つい頭をひねって余計な節目がまた出来てしまいそうだ。
Management Partner Staff
清野裕司