旬刊独白-51

かけっこの一等賞を褒賞してもいいと思うのだが。

毎朝のように私がワークデスクを借りている麹町に出向くべく、最寄りの駅に向かう時間と、小学生が登校する時間とがほぼ一緒になる。数名が連れ添って楽しそうに話しながら学校に向かう子どもたちや、通勤の大人の横をすり抜けるように駆けていく子どもたちを見ていると、その昔、昭和の時代に小学生だった自分の頃と、着ているものは上等にはなっているが、その行動は変わらないと思ってしまう。

授業の内容や、学習の仕方も時代に適応すべく大きく変わってきているのであろう。しかし、いつの頃からであろうか。運動会(今は、この呼称すら変わっているようだが)のこと。徒競走(かけっこ)で一番にテープを切ろうが、最後にゴールにたどりつこうが、一等の子が褒賞されることがなくなってしまった。

既に、セピア色の写真を眺めるような時を重ねて来た者として、その昔を懐かしんでいるわけではない。一番でゴール・テープを切った時の感激、何着かに敗れた時の悔しさは、未だに残る記憶の一つである。1番も2番も、そして最後での到着も、皆一様にゴールを目指して精一杯頑張ったのだから、全員でその頑張りをたたえあうこと。確かに一理あるようにも思われるのだが、一番にゴールした者は他者より、間違いなく早く

目的地に到着した者であり、走るという能力では、そのグループ内で誰よりも勝った能力を発揮した者である。最後に到着した者は確かに頑張ったが、徒競走という同一ルール内の場では力を発揮し切れなかった者でもあり、そこに優位な差はないのだろうか。

よく聞かれる言葉に「何事にも平等な対応をする」ことの重要性があることに反意はない。確かに正論に聞こえる。しかし、そこでの平等とは何であろうか。皆を同じく捉え、差を明示しないことが「平等」なのだろうか。同じルールに基づいて行われたことで生まれた差を、明快にすることの方が重要なのではないかと私は思うのだが。

算数で100点を取った子と徒競走で一等賞を取った子は、共にある分野で有為さを持った子であり、それ相応の対応をすることを考えることが「公平」なのではないのか。同一を語るのではなく、機会均等を論じる方が重要ではないかと私は考えている。

Management Partner Staff
清野 裕司

投稿者:

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一刻一歩に最善を尽くそうと今もする。変わる鋭さと変わらぬ頑固さがある。

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