顧客から「私の店」「私のもの」と言って貰えること。
コロナ禍もあり、この数年みかけることが残念ながら減ってしまってはいるが、季節を問わず、仲間とのコミュニケーションの場を求めて生ビールを飲み干すシーンが年に数回はあったもの。1杯2杯と杯が進み、普段は小声の人までが声高に会話を始め、隣の集団の話題までが、聞くでもなく聞こえてくる空間になったりする。「ちょっと1杯」の誘い文句が、いつの間にやら「空いたジョッキが一杯」の状況。やはりこれでは、コロナウィルスに入り込む余地を広げてしまっているようなものだ。
その後、どうもビールの飲み比べだけでは物足りなくなってしまうようで、次なる店の物色が始まる。足もとがおぼつかなくなっている御仁もいる。何とか近場で気の利いた店はないか。スマホ・携帯の電話帳が活躍し始める。また、エリア内の検索も始まる。情報社会の縮図が現出する瞬間である。そして仲間の内の一人が喜々として声を発する。「じゃ、僕の店に行きましょう。そう、俺の店に・・・」といった声。次なる店が決まり、皆の安堵の声と次への行動準備に移るという集団行動。新橋駅頭などでよく出会う光景であった。

ところで「僕の店」「俺の店」「私の店」とは、どのような店のことであろうか。発言した本人が経営しているわけもなく、出資したわけでもない。また、家族が関与しているわけでもない。ただ、過去に数回行ったことのある店に過ぎない。過去体験によって、その店の雰囲気やメニュー、更には料金までがだいたい予測できる。一緒に行くメンバーの、予算レベル、趣味の範囲、料理の好み・・・等々から判断して、自分なりに妥当と判断した店が「自分の店」であろうか。
馴染み度の深まりは個人差はあるものの、過去の使用頻度・接触頻度と相関するようだ。馴染み度が深まれば、それだけ安心感・納得感も深まりを増す。行く度に新しさを感じさせる店、楽しい会話の待つ店。顧客と店との関係は、自ずと密接なものになるものである。
多くの顧客から「私の○○」と言って貰えること。マーケティングのなすべき役割は、「私の商品」「私の店」といわれるレベルへの創造行為と見ることが出来るのだが、如何せん、この3年はそのような機会すら奪ってしまった。やはり、マスクをつけたりとったりでの焼鳥の味は、ちょっと息苦しい。
望むは、「自分の店」といえる体験を、何の条件もなしで積み重ねることのできる社会の再現である。
Management Partner Staff
清野 裕司