昭和男が感じる令和の巷で見る不思議。
昭和から平成・令和を経て早や30年以上の時が流れている。最近はよく、昭和の時代では当たり前であったことを取り上げ、不思議そうにコメントをするTV番組に出会うことがある。かつては「十年一昔」という表現もあったが、今や「五年一昔」かもしれない。してみれば昭和は大昔ということになってしまう。
今世間で当たり前と思われていることを、逆に昭和の感性から眺めてみれば、不思議と思うこともある。昭和に生まれ、ビジネスのスタートも昭和である私の目から見た今の不思議を綴ってみよう。
1.貴方の情報源はスマホが全てですか。
通勤電車で新聞(紙)を広げて読んでいるビジネスパーソンに出会うことが殆どなくなってきた。確かに新聞を広げられるとその空間は一人だけのものになり、周りの空間は狭くなる。一人ひとりがスマホで情報収集といった方が、空間的にも効率は良いであろうが、その分、情報検索の幅は狭くなってしまうのではないかと、余計なことを心配してしまう。
2.個人の意見をあまり言わないようですが。
会議の場で、参加メンバーに意見を求める。あまり闊達な返事が返ってこない。たまたま、そのメンバーの中の誰かが、どこかの本かインターネットで、誰かが言っていた意見を発信する。すると、その同調者や反論者が登場してくる。しかしそれは、ある意見に対する論評であって、自らの意思を表明したものではない。
3.自分のものは揃え、他人のものまでは気が回りませんか。
情報の共有をすることに対して、一人ひとりが独自のデバイスを活用しているようだ。であるがゆえに、他のメンバーが何に興味を持っているのかということには興味を示さない。狭い自分の空間の中だけで思考しているように感じてしまう。
4.群れていると安心するんですか。
大晦日から年始へのカウントダウン、サッカーワールドカップの集団的ブラボーの声/10月末のハロウィンでの集団・・・、どれもが映し出されているのは渋谷のスクランブル交差点。集まって騒いでいると安心するのかな。
5.表現の短縮に慣れすぎていませんか。
コスパやしゅうかつ、歴女や鉄女などなど、数えればきりがないが、なんでも短縮が当たり前のようだ。「差別性」という言葉も、もともとは「差別的競争優位性」である。短くすれば話は確かにしやすくなるのだが、本質からは外れてしまっているような印象がある。
思いつくままのものなので、もっと日常生活面からみれば不思議と思うことはたくさんあるのではないか。あまり深刻にならず、また折を見て注目すべきことを拾いあがてみよう。
Management Partner Staff
清野 裕司