今は「ない」ことが繰り返される社会のように思える。
通勤電車の車両の中で、高校生の男女が頬を寄せ抱き合って立っていた。通学途上であろうか。そもそも学びの場に向かう姿勢には見えない。それ以上に、公衆の面前での振る舞いとは思えない情景ではないか。かといって「みっともない(=見るに耐えない)」からやめなさい・・・」との叱責の声も上がらない。。多くは眼をそらしている。それよりも、あたり構わぬ大きな声での会話。ひと時、動物園のサル山の風情を感じてしまう。
その少し離れたところで、鏡を出して髪を整えているOLと思しき女性がいた。これもまた「みっともない」と本人は少しも「思っていない」。日本の女性の特徴であった「さりげない」おしゃれ感覚は、決して全てを「さらけ出さない」、ある一面は隠すところに風情があったようにも思うのだが。
TVのバラエティ番組を見るでもなく見ていた。最近はやりのお笑いタレントが登場して「くだらない」「なさけない」という言葉が飛び交う。その「くだらない」内容を真剣な眼差しで見る観客と、その場の雰囲気を映像で見る自分も含めた視聴者。演じていることや会話自体が「くだらない」とは誰も言わない。多少のしかめっ面が見えるだけである。
昼に定食屋に行く。近隣の競争を意識して、質もそうだが見せかけのボリュームを競う店もある。特段の「愛想もない」店のサービス。若い女性では到底「食べきれない」量をサービス、と言い切る店もある。食べ残す。誰も「もったいない」などとは言わない。食べられない量を出す店が悪いのであって、自分には何の非もない、といった顔つき。米一粒食べ残すことに「もったいない」と親に叱られた世代からすると、何とも「やるせない」思いがある。
朝から夕刻までの一日。「~ない」と思いながら、声に発して言う機会も「ない」ままに、目の前の風景が流れていく。これも今の情景なのか、「しようがない」ことなのか。しかし、どこか「切ない」と思ってしう。
Management Partner Staff
清野 裕司