春は気も「張る」時。合わせて「意(い)」の時でもある。
今年も桜の開花は早いようだ。国の会計年度も変わり、一般的には新年度を迎える4月。心弾ませて新しい分野へと足を踏み入れる若者も多いであろう。また一方で、何をすべきかと逡巡しながら、何もしていない者もいるかもしれない。世はさまざま。しかし、その人に与えられた人生は、その人だけにしかない限定的なもの。あえてこの季節、新しいことを始める気分が張り詰める春(「張る」を語源とするという)に一言。
歌の文句ではないが、まさに人生いろいろ・・・である。そのいろいろを生み出すのは、本人の「意志」がどこにあるかにかかっている。何となく「自分のやりたいことがわからない」といった「意見」らしき声を聞くこともあるが、そもそも自分のやりたいことは、「意中」のものとして浮かんでくるものだろうか。先ずは、やってみることが必要なのではないか。何となくぼんやりと考えるくらいなら、試してみようとの「意気込み」が必要ではないのか。ある分野や方面に向かおうと自分の「意向」を固めたとしても、「意のまま」にならないのが世の常。だからこそまた迷う。混迷の中から、自分自身の「意思」が薄ぼんやりとではあるが浮かんでくるもの。
実行することもなく、その場に止まっていたのでは、新しい動きは当然見えてこない。人生の「意義」や生きることの「意味」などといった肩肘張ったことを言いたいのではない。やってみなければわからない自分の適応力を、さもわかったように評論していたのでは、明日が見えないと危惧している。
「意気」だけですべてがうまくいくわけではない。しかし、自分を鼓舞する「意気込み」なくしては、新しい時代の動きを生み出すことは出来ないと思っている。「意のあるところに道は拓ける」ものである。
ものごとの初歩をして「いろはのい」とも言う。してみれば、桜が咲き誇る頃は「意」を確認する「い」の時だと、私は思っている。
Management Partner Staff
清野裕司