食と商業施設の時を辿ってみよう。

暮らしの変化を見るのに、最も身近なものが「食」生活に関することだ。
合わせて、商業施設が辿ってきた道を見直してみるとよい。
MAPSのMookとして整理した。

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Management Partner Staff
清野裕司

瞬刊独白74

「広告新聞」を見て、新聞の役割は何かを考えた。

ある日の午後の出来事。その日の夕刊は、一面の一部を斜めに読んでそれ以外は全く眼を通さなかった。どの紙面を見ても、これ見よがしに同じメーカー、同じ商品の広告が続いたからである。新聞とは何か。新しい情報にゆっくりとアクセスして、自分なりの所感を多くの事実から読み解こうとする時もあれば、娯楽やスポーツのコメントにひと時のやすらぎを感じることもある。しかし、当日のそれは購読者の自由な意志を全く無視した紙面であった。

広告がこの世に不要と思ったことはない。広告に接して心が豊かになることがある。ものごとを考える糸口を教えてくれることもある。そして何より、今までに知ることの無かったモノやサービス、そして場所や人を教えてくれる。低廉にして深みのある情報を提供してくれるメディアであり、最近の若者が新聞を定期購読しない傾向が高まっていることに、残念だと思ったこともある。

しかし、余り美しくイメージを広げすぎていると、しっぺ返しがあるもの。
一社一商品の広告が占拠した新聞では、新しいことを聴こうとの思いにはならない。眼で字を追い、字の刺激から自分の脳の記録が書き換えられていくのであれば、眼で聴くメディアを今の時代の中から自由に選択すれば良い、ということを教えて貰ったような気がする。じっくりと眼で読んでいても、周りの広告の色や文字が自然と眼に入ってきてしまう。静寂な空間上の時間のやり取りに対して、苛立ちすら感じさせる景色になってしまう。

新しさを集中的に説明しようとして、トライアルの需要を刺激しようとする施策に反論があるわけではない。しかし、紙面を制覇したような顔つきの商品と、その状況を甘んじて受け容れている新聞の顔が良くない。新しさを紹介した商品。少なくとも、私はその登場の場面で既に嫌気がさして、どこで出会っても買おうとは思わない。

Management Partnar Staff
清野 裕司

温故知新32

マーケティングは常に相手の心理や脳裏、そして行動を検索し、新たな行動を誘発するきっかけを探ろうとします。
生活は皆、理性的・説明的に行われているのではなく、感性的・気分的に動きを見せていきます。基本思考を学んでおいて欲しい。

32.感性マーケティングの技法

Management Partnar Staff 清野裕司

旬刊独白73

年度替わりの4月は「志」の季節でもある。

今年も新しい動きを実感する季節を迎えた。暖冬傾向の影響であろうか、冬でも縮こまるような姿勢は少ないものの、やはり身も心も弾むのは、3月の桜の開花の後に続く4月である。周りの景色の中に、それまでとは違った存在の人種が入り混じるのもこの季節。フレッシャーといわれる新社会人の姿である。

学生時代そのままの髪型でスーツを着込んでいるからか、何となく不似合いな雰囲気が残る。それも止む無しであろう。卒業謝恩会で見られる女子学生の着慣れない着物姿に似ている。これからは、今までの日常と異なる時の流れの中に身を置くことになる。当然、リズムも異なったものにならざるを得ないもの。姿かたちは、まだ板につかないものの、その心の中にあるものに大いに期待したいものである。

未来に向けて描いているであろう自分自身の姿。自らの心が、どちらの方向を向いているのかを確認して欲しいと思う。心が指す。まさに「こころざし=志」である。何となく茫洋とした意志かもしれない。「自分探し」という言葉も聞く。自分が何に向いているのか分からないので、固有の職を持つことなく、自分の可能性を探すとか。しかし、考えをいくら巡らせたところで、自分自身の実体が浮かんでくるとは思えない。先ずはやってみることではないか。

好きなことを一生続けられると幸せ、とも言われる。しかし、志は決して好きなことばかりを迎え入れてはくれない。嫌なこともある。意に沿わないこともある。ただ、嫌だと思ったことも、次なる自分を生み出す術と心得た時に、嫌なことではなくなるもの。自分の心と会話をしたかどうかが問われている。

「心こそ、心惑わす心なれ。心に心、心許すな」と昔から言われる。心が指し示す方向を持った若者に、この4月、何人出会うことがあるのか、心してその時を待ちたいと思っている。

Management Partnar Staff
清野 裕司

 

 

冷凍食品は日本人の食卓を変えていったのか。

冷凍食品が一気にその内容を含めて革新の道を突き進むようになったのは、
1964年(昭和39年)の東京オリンピック選手村の食堂からであったと
いわれている。
世界各国、日本各地の味を味わうことができるようになった今これから冷凍食品市場は、どのような変革をしようとしているのかを考えたい。

冷凍食品市場変遷 :PPT

冷凍食品市場変遷 :PDF

Management Partner Staff
清野裕司

旬刊独白72

春は気も「張る」時。合わせて「意(い)」の時でもある。

今年も桜の開花は早いようだ。国の会計年度も変わり、一般的には新年度を迎える4月。心弾ませて新しい分野へと足を踏み入れる若者も多いであろう。また一方で、何をすべきかと逡巡しながら、何もしていない者もいるかもしれない。世はさまざま。しかし、その人に与えられた人生は、その人だけにしかない限定的なもの。あえてこの季節、新しいことを始める気分が張り詰める春(「張る」を語源とするという)に一言。

歌の文句ではないが、まさに人生いろいろ・・・である。そのいろいろを生み出すのは、本人の「意志」がどこにあるかにかかっている。何となく「自分のやりたいことがわからない」といった「意見」らしき声を聞くこともあるが、そもそも自分のやりたいことは、「意中」のものとして浮かんでくるものだろうか。先ずは、やってみることが必要なのではないか。何となくぼんやりと考えるくらいなら、試してみようとの「意気込み」が必要ではないのか。ある分野や方面に向かおうと自分の「意向」を固めたとしても、「意のまま」にならないのが世の常。だからこそまた迷う。混迷の中から、自分自身の「意思」が薄ぼんやりとではあるが浮かんでくるもの。

実行することもなく、その場に止まっていたのでは、新しい動きは当然見えてこない。人生の「意義」や生きることの「意味」などといった肩肘張ったことを言いたいのではない。やってみなければわからない自分の適応力を、さもわかったように評論していたのでは、明日が見えないと危惧している。

「意気」だけですべてがうまくいくわけではない。しかし、自分を鼓舞する「意気込み」なくしては、新しい時代の動きを生み出すことは出来ないと思っている。「意のあるところに道は拓ける」ものである。

ものごとの初歩をして「いろはのい」とも言う。してみれば、桜が咲き誇る頃は「意」を確認する「い」の時だと、私は思っている。

Management Partner Staff
清野裕司

 

温故知新29

既に30年の時を刻んだ。往時より、顧客は「管理」するものではなく「支援」するものと発信していた。
企業は、本当に「顧客志向」のマーケティングを展開してきたのだろうか。疑問だ。

29.見えざる顧客  Amazon: https://qr.paps.jp/t0WTU

Management Partner Staff 清野裕司

 

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