瞬刊独白74

「広告新聞」を見て、新聞の役割は何かを考えた。

ある日の午後の出来事。その日の夕刊は、一面の一部を斜めに読んでそれ以外は全く眼を通さなかった。どの紙面を見ても、これ見よがしに同じメーカー、同じ商品の広告が続いたからである。新聞とは何か。新しい情報にゆっくりとアクセスして、自分なりの所感を多くの事実から読み解こうとする時もあれば、娯楽やスポーツのコメントにひと時のやすらぎを感じることもある。しかし、当日のそれは購読者の自由な意志を全く無視した紙面であった。

広告がこの世に不要と思ったことはない。広告に接して心が豊かになることがある。ものごとを考える糸口を教えてくれることもある。そして何より、今までに知ることの無かったモノやサービス、そして場所や人を教えてくれる。低廉にして深みのある情報を提供してくれるメディアであり、最近の若者が新聞を定期購読しない傾向が高まっていることに、残念だと思ったこともある。

しかし、余り美しくイメージを広げすぎていると、しっぺ返しがあるもの。
一社一商品の広告が占拠した新聞では、新しいことを聴こうとの思いにはならない。眼で字を追い、字の刺激から自分の脳の記録が書き換えられていくのであれば、眼で聴くメディアを今の時代の中から自由に選択すれば良い、ということを教えて貰ったような気がする。じっくりと眼で読んでいても、周りの広告の色や文字が自然と眼に入ってきてしまう。静寂な空間上の時間のやり取りに対して、苛立ちすら感じさせる景色になってしまう。

新しさを集中的に説明しようとして、トライアルの需要を刺激しようとする施策に反論があるわけではない。しかし、紙面を制覇したような顔つきの商品と、その状況を甘んじて受け容れている新聞の顔が良くない。新しさを紹介した商品。少なくとも、私はその登場の場面で既に嫌気がさして、どこで出会っても買おうとは思わない。

Management Partnar Staff
清野 裕司

旬刊独白73

年度替わりの4月は「志」の季節でもある。

今年も新しい動きを実感する季節を迎えた。暖冬傾向の影響であろうか、冬でも縮こまるような姿勢は少ないものの、やはり身も心も弾むのは、3月の桜の開花の後に続く4月である。周りの景色の中に、それまでとは違った存在の人種が入り混じるのもこの季節。フレッシャーといわれる新社会人の姿である。

学生時代そのままの髪型でスーツを着込んでいるからか、何となく不似合いな雰囲気が残る。それも止む無しであろう。卒業謝恩会で見られる女子学生の着慣れない着物姿に似ている。これからは、今までの日常と異なる時の流れの中に身を置くことになる。当然、リズムも異なったものにならざるを得ないもの。姿かたちは、まだ板につかないものの、その心の中にあるものに大いに期待したいものである。

未来に向けて描いているであろう自分自身の姿。自らの心が、どちらの方向を向いているのかを確認して欲しいと思う。心が指す。まさに「こころざし=志」である。何となく茫洋とした意志かもしれない。「自分探し」という言葉も聞く。自分が何に向いているのか分からないので、固有の職を持つことなく、自分の可能性を探すとか。しかし、考えをいくら巡らせたところで、自分自身の実体が浮かんでくるとは思えない。先ずはやってみることではないか。

好きなことを一生続けられると幸せ、とも言われる。しかし、志は決して好きなことばかりを迎え入れてはくれない。嫌なこともある。意に沿わないこともある。ただ、嫌だと思ったことも、次なる自分を生み出す術と心得た時に、嫌なことではなくなるもの。自分の心と会話をしたかどうかが問われている。

「心こそ、心惑わす心なれ。心に心、心許すな」と昔から言われる。心が指し示す方向を持った若者に、この4月、何人出会うことがあるのか、心してその時を待ちたいと思っている。

Management Partnar Staff
清野 裕司

 

 

旬刊独白72

春は気も「張る」時。合わせて「意(い)」の時でもある。

今年も桜の開花は早いようだ。国の会計年度も変わり、一般的には新年度を迎える4月。心弾ませて新しい分野へと足を踏み入れる若者も多いであろう。また一方で、何をすべきかと逡巡しながら、何もしていない者もいるかもしれない。世はさまざま。しかし、その人に与えられた人生は、その人だけにしかない限定的なもの。あえてこの季節、新しいことを始める気分が張り詰める春(「張る」を語源とするという)に一言。

歌の文句ではないが、まさに人生いろいろ・・・である。そのいろいろを生み出すのは、本人の「意志」がどこにあるかにかかっている。何となく「自分のやりたいことがわからない」といった「意見」らしき声を聞くこともあるが、そもそも自分のやりたいことは、「意中」のものとして浮かんでくるものだろうか。先ずは、やってみることが必要なのではないか。何となくぼんやりと考えるくらいなら、試してみようとの「意気込み」が必要ではないのか。ある分野や方面に向かおうと自分の「意向」を固めたとしても、「意のまま」にならないのが世の常。だからこそまた迷う。混迷の中から、自分自身の「意思」が薄ぼんやりとではあるが浮かんでくるもの。

実行することもなく、その場に止まっていたのでは、新しい動きは当然見えてこない。人生の「意義」や生きることの「意味」などといった肩肘張ったことを言いたいのではない。やってみなければわからない自分の適応力を、さもわかったように評論していたのでは、明日が見えないと危惧している。

「意気」だけですべてがうまくいくわけではない。しかし、自分を鼓舞する「意気込み」なくしては、新しい時代の動きを生み出すことは出来ないと思っている。「意のあるところに道は拓ける」ものである。

ものごとの初歩をして「いろはのい」とも言う。してみれば、桜が咲き誇る頃は「意」を確認する「い」の時だと、私は思っている。

Management Partner Staff
清野裕司

 

旬刊独白71

「郷に入れば・・・」の想いが「道徳心」の始まりなのか。

私は日常、ほとんど私鉄を使って移動している。週末といっても、各駅での乗降の混雑は普段とさして変わることがない。しかも最近は、目的の駅で降りようとしても、ドアの側から決して離れることなく、頑として動こうとしない御仁に出会う頻度も高くなり、なかなか人の合間を縫って器用にステップを踏んでいかないと、所定の時間内に乗り降りが完了しないことすらある。

土曜日の日中は、ウィークデイよりは若干処しやすいかと思っていても、今度は若い学生や子供づれの登場で、やはりなかなか思うようにはいかないもの。

最近の土曜日に出会った私鉄駅での出来事。

いつものように電車が駅に滑り込む。幾つかの地下鉄が交差する主要駅である。降りる人も数多い。ドア近くに立っていた私も、一旦降りてから再度乗った方が邪魔ではなさそうだ。降りようとした時に青い眼の少年と眼が合った。小学校高学年か中学生くらいに見えた。降りてくる人の間から乗り込もうと身構えている様子。その時、少し遠くからの厳しい声“Stop!”。彼の母親であろう。「ドアの横に立って道を開ける」ように指示している。少年は素直に通り道を空けて側面に立った。私は彼の眼を見て微笑みかけた。

再度乗り込んで、私が降りる駅。ここもかなりの混みよう。さあ着いた、の思いでドアの方に進む。今度は日本人の少年が脱兎のごとく乗り込んでくる。まだ、多くの人が降りる途中である。少し遠くから厳しい声が聞こえる。「早く!早く!」。どうやらその子どもの母親らしい。「早く乗り込んで席を確保する」ように指示している。

日本人の道徳心とは何なのだろうか。「郷に入れば郷に従え」=“When in Rome,do as the Romans do.”

さあ、われわれは日本の日常的な道徳心を、どう伝えれば良いのだろうか。「道徳」という授業時間を新設しても、頭での理解に終始してしまうのではないか。まずは「道徳」とは何か、ということを話し合ってみるのが良いように思えるのだが。

Management Partnar Staff
清野裕司

旬刊独白70

「今時の・・・」が持つ意味は何を表わしているのか。

農業技術の進化や国際的物流ネットワークの整備があるからであろう、最近のスーパー店頭では本来持っていた季節感とは異なる果物が多く並んでいる。ブドウといえば「秋」であったと思うのだが、4月には味わうことが出来る。イチゴといえば「春」を告げるものと心得ていたが、今は真「冬」の時から店頭に並び、Xmasは勿論のこと、正月の食卓にすら並んでいる。5月にはスイカ。スイカといえば「夏」の風物詩。幼い頃は、外で遊びまわって帰ると、流し水に浸ったスイカを切り分け、頬張ったものである。

「季節の果物」という言葉自体が、既に時代を言い表していないのかもしれない。季節感と言うよりも、今店頭に並んでいるものが「今時の果物」であって、四季折々の感性などは問わないのであろうか。とは言いつつも、自分自身が味わったものは、その折の心象風景と共に浮かび上がってくるもの。「5月の西瓜」はそれなりの味が保証されているのだろうか。少しは気になる。そこで、商品を並べている店の責任者と思しき人に聞いてみる。「このスイカ、甘いですか・・・?」と。売り手からは、「そうだね、まぁ、今時のスイカだから・・・」とのコメント。

そのこたえをどう解釈するかは、客サイドの私の判断に任せられる。ただ私には、「スイカは夏。今は決して夏じゃないのだから、季節を実感することは保証できないけれど。」と聞こえる。「今時の」の解釈は実に多岐にわたるもの。とすれば、「今時の若者」や「今時の会社」といった言葉には、どのような意味が隠されているのであろうか。「以前に比べれば・・・」だろうか「本来は・・・」だろうか。

過去にこだわることを善しとはしないものの、季節を感じる暮らしはしたいと思っている。とすれば、自然の営みを通じて知る「今時の・・・」は何をもって知ればよいのかと、ふと思う店頭に並ぶ果物たち。

合わせて、転職礼賛的なCMを見て、今時の「会社」「人材」とは何かと、社会に問いたくなってしまう。

Management Partnar Staff
清野裕司

旬刊独白69

今は「ない」ことが繰り返される社会のように思える。

通勤電車の車両の中で、高校生の男女が頬を寄せ抱き合って立っていた。通学途上であろうか。そもそも学びの場に向かう姿勢には見えない。それ以上に、公衆の面前での振る舞いとは思えない情景ではないか。かといって「みっともない(=見るに耐えない)」からやめなさい・・・」との叱責の声も上がらない。。多くは眼をそらしている。それよりも、あたり構わぬ大きな声での会話。ひと時、動物園のサル山の風情を感じてしまう。

その少し離れたところで、鏡を出して髪を整えているOLと思しき女性がいた。これもまた「みっともない」と本人は少しも「思っていない」。日本の女性の特徴であった「さりげない」おしゃれ感覚は、決して全てを「さらけ出さない」、ある一面は隠すところに風情があったようにも思うのだが。

TVのバラエティ番組を見るでもなく見ていた。最近はやりのお笑いタレントが登場して「くだらない」「なさけない」という言葉が飛び交う。その「くだらない」内容を真剣な眼差しで見る観客と、その場の雰囲気を映像で見る自分も含めた視聴者。演じていることや会話自体が「くだらない」とは誰も言わない。多少のしかめっ面が見えるだけである。

昼に定食屋に行く。近隣の競争を意識して、質もそうだが見せかけのボリュームを競う店もある。特段の「愛想もない」店のサービス。若い女性では到底「食べきれない」量をサービス、と言い切る店もある。食べ残す。誰も「もったいない」などとは言わない。食べられない量を出す店が悪いのであって、自分には何の非もない、といった顔つき。米一粒食べ残すことに「もったいない」と親に叱られた世代からすると、何とも「やるせない」思いがある。

朝から夕刻までの一日。「~ない」と思いながら、声に発して言う機会も「ない」ままに、目の前の風景が流れていく。これも今の情景なのか、「しようがない」ことなのか。しかし、どこか「切ない」と思ってしう。

Management Partner Staff
清野 裕司

旬刊独白68

ビジネススタイルは、基本を繰り返す「凡事徹底」が育む。

「継続は力」とは昔から言われていることだが、現在のような変革の時代といわれる中にあって、改めてその重要さを実感している。旧弊を維持することを善しとはしないが、変えなくても済むことを、無理やりに変えて、変わることが正しいようなコメントを聞くと、果たしてそうか、と疑問文を投げかけたくなってしまう。

新しい機能が、これでもかと言っているかのような新機種ラッシュのスマホ。本来的な機能や操作に慣れる前に次。新しければ善しとする風潮も気になること。環境適応を言いながら、使い切る前に新商品のラッシュである。今までのものの何が不都合だったのかとも思ってしまう。それだけ、技術の進化スピードが速まってきていることの証でもあるのだろう。付帯する技術的な進化に合わせて、次々と付加される便宜性であれば納得も出来る。しかし、本来やるべきことをやっていないケースは、何ともやり切れぬ思いになる。

買い物に店を覗く。当然客を出迎える「いらっしゃいませ」の溌剌とした声が聞かれるものと想定する。しかし聞こえてこない場面がある。聞こえるのは店員同士の会話の声。欲しいものを探して、客によって勝手に動かされた商品。整然と並べておくことが全てとは言わないまでも、いつでも選択しやすい状況になっているのが店頭ではないかと思う。そうではない雑然とした商品。塵ひとつ落ちていない清潔な店を求めているのではないまでも、食事をする空間は清潔感が基本。ところが、何とも雑然たる空間になっているファミリーレストランやファストフードの店。客が店内不案内であれば、丁寧に導くのが大型店舗にいる担当者だと思うのだが、客と眼を合わすことを避けるような態度の百貨店のフロア-スタッフ。

基本とは何か。今の社会に問われているような気がする。当たり前と言われることには、特段の目新しさはない。まさに平凡なことの繰り返しである。しかし、その凡事を徹底してやり続けることが難しい。難しいが故に、実現されている場に出会った時の感動と心の安定の高さがあることも事実であることを忘れてはならないと、私は思っている。

Management Partner Staff
清野裕司

旬刊独白67

マーケティングは顧客との「貸し借り」のバランスづくり。

消費者金融が発するメッセージに「ご利用は計画的に」がある。借りたものは返す、世の道理である。返せないなら借りるな。これも道理であろう。しかし、今の世情はどうやらそうではないようで、「返せそうもないが、まあ何とかなるだろう」といったお気楽モードも一部見られるから切ない。30年ほど前、“Play Now,Pay Later”のキャッチフレーズがクレジット会社から流れていたことがある。楽しみは先に、但しその借りは返すように言い聞かせていたものである。
最近は「勝ち組/負け組」に代表される二者択一的な判断基準が横行しているように感じる。どちらを選ぶかと言われれば、多くは負の状況よりも正の状況を選択したくなるのも人情であろう。しかし、一方の極があればその対極が必ずあるもの。両者のバランスによって人生は創り出されている。一方の極にのみ身を置いていると、どうしても思考の回路や、何よりも暮らしの姿勢自身が偏ったものになってしまう。「偏見、偏狭、偏食、偏屈・・・」ほめられた言葉は並ばない。
ビジネスの世界も、経済的な対価のやり取りに限らず、業務上の貸し借りが常に存在する。なぜ自分だけがこんな思いをしなければならないのか、と苦渋に満ちた顔で現在の仕事を語る人に出会うことがある。しかし、終生そのような状況が続くわけではない。その仕事は多くの人に貸しを作っているはず。いつか利息がついて返ってくることがあるもの。ただ、その返済に気づかぬままでいることがあり、自分は貸しばかり作っていると思い込んでしまうようだ。
借りを作るよりも貸しを作った方が、将来が楽しみだと私は思っている。借りると返さなくてはならない。それよりも、今の仕事がいつか廻って戻ってくることを楽しみにしていたいもの。

マーケティングは、顧客への一方的な貸付ではなく、顧客から「ありがとう」の言葉が返ってくる、貸し借りのバランス行動ですから。

Managenment Partner Staff
清野 裕司

旬刊独白66

感じたままに書かれた文章には、発信者の想いが溢れている。

 ビジネスのさまざまな場面で「提案力」「企画力」の必要性をよく聞く。
従来からも、企画することの重要性は唱えられてきたのだが、現在の経営環境にあっては、従来にはない新しい発想が待たれていることも確かである。

 提案するということは、まだ知られていないこと、思いついていないことを「気づかせる」ことから始まるもの。既に分かっていることを改めて言われても、さしたる驚きもなく、「言われるまでもないこと」と無表情な答えが返ってくることになるであろう。「気づき」を提示することは、聞く側にとっての感動を演出することに繋がる。そこにこそ、企画提示の楽しさ、面白さがある。何も知ったかぶりをして告げることではない。新しい見方や考え方を提示することである。マーケティング・スタッフに求められる資質やセンスは、自分自身の「気づき力」にあるといえよう。

世の中にある現象や事実に対して、自らが先ず疑問符を投げかけて考えてみる。「なぜこのようなことが起きるのか、なぜ今、このような商品や店が受け入れられるのか・・・」幾つもの疑問を自分自身に投げか浮かんでくる。そこからが問題。書き残しておかなければ、自分の気づきがどこかに飛んでいってしまう。忘れてしまうことになる。

折角思いついたのに、あの考えは何だったか。後になって思い出す。そして企画書に自分の想いを書き込もうとすると「作文」になってしまう。抽象的な文章が並び、現象や事象は丁寧に説明しているのだが、感動を呼ぶことはない。心が揺れない。作り込まれた文章は、どうしても説明的になってしまう。必要なことは、自分が感じたことをそのままに表現する「感文」にある。美しいものを「美しい」と書き込む力。感じたものがそのままに表現されることが、人への気づきを提供するものである。

マーケティングは、未来を予見し、まだ見ぬ世界を描き出すビジネス・アプローチである。作り込まれた「作文」よりも、自分自身が感じた心から発信された「感文」にこそ夢の説明力が内在していると、私は思っている

Managenment Partner Staff
清野 裕司

旬刊独白:今の時代は何色の風が漂っているのでしょうか。

旧来よりわが国には、移り行く四季を肌に感じ、暮らしの中に季節の様子を取り込んでいく、生活感性に深く溶け込んだ「四季」があったように思う。
四季の様子は色にも例えられ「青春・朱夏・白秋・玄冬」とる言われる。

「青・赤・白・玄(黒)」の各色は、巡り行く1年の中の変化だけではなく、大きな時代変化の時にも、その時代の雰囲気として使われた色分けでもあったかと思われる。1945年以降の、いわゆる戦後社会から今までに歌い継がれた歌の歌詞にも、その様子が見て取れる。

映画にもなった「青い山脈」やヒット曲として紹介される「リンゴの唄」の歌詞にも見られる(♪赤いリンゴにくちびるよせて だまって見ている青い空)が、戦後すぐの時期には「青」が頻出してくる。青い空は、戦争が終わった平和な社会の象徴であったような気がしている。

その後、1964年の東京オリンピックを経て経済成長の波に乗って、何となく社会には「熱」を感じさせるものが蔓延して「赤」が中核を占めていたようだ。美空ひばりの歌った「真っ赤な太陽」や松田聖子の「赤いスイートピー」。社会全体が、力を蓄えて前に進むことを意識していたように感じる。

1995年のバブル経済崩壊後は、一方的に力づくでも上昇気流に乗るというよりも、少しゆっくりと時を刻む「白」が取り上げられたり、その白を代表した「雪」が登場する印象が強かったように感じる。

そして今の時代。特に2020年以降は新型コロナウィルスの影響が至る所で見られるようになり、社会経済活動の停滞をきたした。働くスタイルが問い直され、1ヶ月の仕事が止まって経営が至らなくなる経済基盤の脆弱性が問われる時代になってきた。

このようにみてくると、時代変遷も「青→赤→白→玄(黒)」と移り変わるのだろうか。順送りから見れば、今の時代は「黒」。果たして、われわれが知恵を出し合って描く次の社会、Postコロナ時代には何色の風が漂うのだろうか。

Management Partner Staff
清野裕司

旬刊独白:「相身互い(あいみたがい)」という言葉を聞かなくなってしまった。

失われた〇〇年とも言われ、今世紀に入ってからの日本の社会は、何となく疲労感漂う顔付きや、未来を見ることのない眼を持った若者に出逢ったり・・・・。自分の気持ちを素直に出すことが出来なかったり、その想いを文字にすることが出来ない人が増えたりと、どうも現在、「考える力」が軟弱になった社会に住んでいるような気がしてしまう。

だからだろうか。相手のことや相手の立場を知ろうとせず、自分中心に世の中が回っているとでも思っているような人に出会う機会が増えてきた。街を歩いていると、都会では止む無く人とぶつかったり、大きなバックの角が当たったりすることは日常茶飯事。しかし、その瞬間の会話がない。ぶつけた方もぶつけられた方も無言。ただ、お互いに不愉快そうな顔をして行き過ぎるだけ。一言の「失礼」「ごめんなさい」を言う暇もないほど、先を急ぐ日々なのだろうか。決してそうは思えないときが多いのだが。

この国の文化は、お互いに痛みを分かち合う社会ではなかったのか。

「相身互い」という言葉がある。互いが互いの立場に立って考え、事にあたれば相互の理解が進むとの考えがあったはず。だが、いつの頃からか、そのような精神文化はどこかに行ってしまったようである。相手を思いやることがない社会では、当然相手の心の痛みや悩みは知るよしもないであろう。人を傷つけても、自らの心が痛まないのかもしれない。

マーケティングの根源は、顧客の立場を知ることに始まる。相手の立場に立って、その思考(志向)を読み解くことが何よりも必要である。まさに、自らも受け手に立って「相身互い」の思考回路を持たなければ、顧客に近づく施策など生まれないと思うのだが。

Management Partnar Staff
清野裕司

旬刊独白63:「さん」付けは、時と場をわきまえないと単なる記号になる。

新聞折込チラシの中に、小さな店のオープン案内を見て思ったこと。隣の駅の近くで、略図が掲載されている。駅前の商店街を抜けたCVSの少し先。しかし、その地図が何とも見にくい。サインになる他店の表記のわかりづらさが原因のようだ。CVSの固有名詞に「さん」付け、飲食店の店名にも「さん」が付してある。「セブンイレブンさん」「中華○○さん」、角にあるのが、ビューティサロンの「○○美容室さん」。他者に敬意を表したつもりだろうが、そのことに、どれ程の意味があるのか疑問である。

確かに新しい店にとってみれば、その地域の新参者であり、周囲に気を配るという考えもあるのであろう。しかしそれは何のため、誰のためなのか。チラシそのものの目的は、ご近所への気配りではなく近隣住民への挨拶、顧客化へのお願いであるはず。してみると、敬称をつけるべきは来店頂いた顧客に対してではないのか。

TV番組を見たり若者の会話を聞いていても、時に「OLさん」という言葉を耳にする。Wikipediaによれば、「OL」とは“「女性の会社員や事務員」を意味する和製英語”とある。そのまま日本語で言えば「事務員さん」になる。「魚屋さん」「八百屋さん」「歯医者さん」のような、店や職業の種類に「さん」を付けて固有名詞に近づけて親近感や敬意を表現することは昔からあった。ただ、いかに一般名詞に「さん」を付けても、た「OLさん」では固有名詞化することはない。ましてや、敬意を表する想いは感じさせないもの。「OLさん」があるのであれば「サラリーマンさん」と「さん」を付けても良さそうだが、ごろが悪いのか、そのような言い方に出会ったことはない。

その昔、夜の街では道行く人を捕まえては、誰かれ構わず「社長さん」などの呼び込みの声が聞かれた。してみると「OLさん」も、さしたる考えも無いままの普通名詞かと思える。

日本語の乱れといったレベルではなく、時と場にかかわりのない日本語が氾濫している。自分自身は、自らのレベルで、時と場をわきまえた日本語を発していきたいと思っている。

Management Partnar Staff
清野裕司

旬刊独白62:相手との「距離」を測ることから顧客関係はつくられる。

初めて会ったにもかかわらず、言葉遣いが馴れ馴れしい人がいる。ビジネスの関係もそうだが、デパートをはじめとして幾つかの店でそのような体験をすることが多くなったように感じる。店に入って、品定めをしている最中からもう友だち。「これなんか良くない?」と語尾の上がった節回し。「ちょ~似合ってるよ」と若者から励ましの言葉。途端に購買意欲が減退してしまう。

ビジネスの関係もしかり。出逢った最初は、おもむろに名刺の交換があり、何と gbなく、お互いが丁寧語でプロジェクトの進捗などをやり取りする。しかし2度目のミーティングがいけない。既にして友だち。「あ~、こないだはど~も。あの件、出来てる?!おーっ、さ~すが~」。何がさすがなのか、当方は当たり前の自分のペースで仕事をしたに過ぎない。特別に驚いてもらう必要も無い、ごく普通のことだ。しかし、30代前半と思しき男性にとってみると、時間通りに出来上がることは凄いことらしい。何とも言えぬ認識のギャップである。

最近は、親しくなることの履き違え状況によく出逢う。親しさと馴れ馴れしさの履き違えである。親しい関係とは、相手の様子や心情までも深くかかわりを持って知ることにより生まれる距離のことである。これ以上のことを言っては、相手が傷つく、あるいは自分自身が誤解される、といった一定の距離の中での想いが錯綜するもの。だからこそ、ビジネス上の関係が長く続くことにもなる。ずけずけと、容赦なく人の感情の中に土足で入ってこられたのではたまったものではない。親しさを超えた馴れ馴れしさであり、親しき中にも礼儀ありを知らぬ者といえよう。

馴れ馴れしい言葉遣いや態度を示すことが、相手との近接関係になると考える者もいるようである。しかし、そこには感情のやり取りは見受けられず、一方通行である。自らの価値観を押し付けようとする意図すら見え隠れする。相手を知ろうとする意識が薄いのは明らかである。

マーケティングの原点は、顧客の理解に始まる。顧客との距離は、馴れ馴れしく語りかけることではなく、先ずは自らの顧客の存在を知り、相手の立場に立って語りかけることにあるのだが。本質をわきまえなければ、間抜けのそしりは免れないものである。

Management Partnar Staff
清野裕司

投稿者:

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一刻一歩に最善を尽くそうと今もする。変わる鋭さと変わらぬ頑固さがある。 

瞬刊独白61

「環境」問題は、暮らしにいきる「おもいやり」のこと。

「環境」の文字に出逢うことが多くなっている。マーケティング・スタッフの仕事を通じて使うビジネス場面での環境は、まさに現在起きているビジネスの「状況」や「様相」のことであり、競争環境・業界環境・社内環境といった言葉が飛び交う。そのまま、競争の様子、業界の状況、社内の雰囲気と置き換えて解釈した方が具体的にイメージも広がっていく。

ただ最近は、ビジネスの環境に止まらず広い分野で「環境」の文字に出逢う。。地球温暖化に代表される、「地球環境」の問題。都市生活における「都市環境」「生活環境」。更には、人間関係の変化にともなう「社会環境」は、暮らしの変化を言うこともある。親子関係や兄弟の関係を話題にした「家庭環境」。もちろん自分自身のことを言う「体内環境」「口内環境」を謳った商品広告にも出逢うことが多い。

「環境」と言われると、自分自身の身の回りに対して、常に心しなければならない「思いやり」への警鐘のようにも聞こえてくる。地球上にある諸物を傷めることなく使う心や行動。人間関係を滑らかにする言葉や行動。社会の共有物を大切にする想い。時に自分の身体をいたわる心。その全てを「環境」の言葉で収めてしまうと、先ず何をすべきか、どう対処すべきかの判断がしにくくなってしまうような気がする。

ビジネス環境、マーケティング環境もしかり。環境変化に何をすべきか、どうすべきかを考えようとしたとき、「今起きている競争相手の動き」「自社製品の店頭での位置づけ」といった言葉に「環境」を置き換えて考えると、もう少し行動に転化出来そうである。

自分自身に起きている「環境」問題は何であろうか。改めてデスク回りの「環境:状況」を見直す。

           Management Partner Staff
       清野裕司

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