旬刊独白69

今は「ない」ことが繰り返される社会のように思える。

通勤電車の車両の中で、高校生の男女が頬を寄せ抱き合って立っていた。通学途上であろうか。そもそも学びの場に向かう姿勢には見えない。それ以上に、公衆の面前での振る舞いとは思えない情景ではないか。かといって「みっともない(=見るに耐えない)」からやめなさい・・・」との叱責の声も上がらない。。多くは眼をそらしている。それよりも、あたり構わぬ大きな声での会話。ひと時、動物園のサル山の風情を感じてしまう。

その少し離れたところで、鏡を出して髪を整えているOLと思しき女性がいた。これもまた「みっともない」と本人は少しも「思っていない」。日本の女性の特徴であった「さりげない」おしゃれ感覚は、決して全てを「さらけ出さない」、ある一面は隠すところに風情があったようにも思うのだが。

TVのバラエティ番組を見るでもなく見ていた。最近はやりのお笑いタレントが登場して「くだらない」「なさけない」という言葉が飛び交う。その「くだらない」内容を真剣な眼差しで見る観客と、その場の雰囲気を映像で見る自分も含めた視聴者。演じていることや会話自体が「くだらない」とは誰も言わない。多少のしかめっ面が見えるだけである。

昼に定食屋に行く。近隣の競争を意識して、質もそうだが見せかけのボリュームを競う店もある。特段の「愛想もない」店のサービス。若い女性では到底「食べきれない」量をサービス、と言い切る店もある。食べ残す。誰も「もったいない」などとは言わない。食べられない量を出す店が悪いのであって、自分には何の非もない、といった顔つき。米一粒食べ残すことに「もったいない」と親に叱られた世代からすると、何とも「やるせない」思いがある。

朝から夕刻までの一日。「~ない」と思いながら、声に発して言う機会も「ない」ままに、目の前の風景が流れていく。これも今の情景なのか、「しようがない」ことなのか。しかし、どこか「切ない」と思ってしう。

Management Partner Staff
清野 裕司

旬刊独白68

ビジネススタイルは、基本を繰り返す「凡事徹底」が育む。

「継続は力」とは昔から言われていることだが、現在のような変革の時代といわれる中にあって、改めてその重要さを実感している。旧弊を維持することを善しとはしないが、変えなくても済むことを、無理やりに変えて、変わることが正しいようなコメントを聞くと、果たしてそうか、と疑問文を投げかけたくなってしまう。

新しい機能が、これでもかと言っているかのような新機種ラッシュのスマホ。本来的な機能や操作に慣れる前に次。新しければ善しとする風潮も気になること。環境適応を言いながら、使い切る前に新商品のラッシュである。今までのものの何が不都合だったのかとも思ってしまう。それだけ、技術の進化スピードが速まってきていることの証でもあるのだろう。付帯する技術的な進化に合わせて、次々と付加される便宜性であれば納得も出来る。しかし、本来やるべきことをやっていないケースは、何ともやり切れぬ思いになる。

買い物に店を覗く。当然客を出迎える「いらっしゃいませ」の溌剌とした声が聞かれるものと想定する。しかし聞こえてこない場面がある。聞こえるのは店員同士の会話の声。欲しいものを探して、客によって勝手に動かされた商品。整然と並べておくことが全てとは言わないまでも、いつでも選択しやすい状況になっているのが店頭ではないかと思う。そうではない雑然とした商品。塵ひとつ落ちていない清潔な店を求めているのではないまでも、食事をする空間は清潔感が基本。ところが、何とも雑然たる空間になっているファミリーレストランやファストフードの店。客が店内不案内であれば、丁寧に導くのが大型店舗にいる担当者だと思うのだが、客と眼を合わすことを避けるような態度の百貨店のフロア-スタッフ。

基本とは何か。今の社会に問われているような気がする。当たり前と言われることには、特段の目新しさはない。まさに平凡なことの繰り返しである。しかし、その凡事を徹底してやり続けることが難しい。難しいが故に、実現されている場に出会った時の感動と心の安定の高さがあることも事実であることを忘れてはならないと、私は思っている。

Management Partner Staff
清野裕司

旬刊独白67

マーケティングは顧客との「貸し借り」のバランスづくり。

消費者金融が発するメッセージに「ご利用は計画的に」がある。借りたものは返す、世の道理である。返せないなら借りるな。これも道理であろう。しかし、今の世情はどうやらそうではないようで、「返せそうもないが、まあ何とかなるだろう」といったお気楽モードも一部見られるから切ない。30年ほど前、“Play Now,Pay Later”のキャッチフレーズがクレジット会社から流れていたことがある。楽しみは先に、但しその借りは返すように言い聞かせていたものである。
最近は「勝ち組/負け組」に代表される二者択一的な判断基準が横行しているように感じる。どちらを選ぶかと言われれば、多くは負の状況よりも正の状況を選択したくなるのも人情であろう。しかし、一方の極があればその対極が必ずあるもの。両者のバランスによって人生は創り出されている。一方の極にのみ身を置いていると、どうしても思考の回路や、何よりも暮らしの姿勢自身が偏ったものになってしまう。「偏見、偏狭、偏食、偏屈・・・」ほめられた言葉は並ばない。
ビジネスの世界も、経済的な対価のやり取りに限らず、業務上の貸し借りが常に存在する。なぜ自分だけがこんな思いをしなければならないのか、と苦渋に満ちた顔で現在の仕事を語る人に出会うことがある。しかし、終生そのような状況が続くわけではない。その仕事は多くの人に貸しを作っているはず。いつか利息がついて返ってくることがあるもの。ただ、その返済に気づかぬままでいることがあり、自分は貸しばかり作っていると思い込んでしまうようだ。
借りを作るよりも貸しを作った方が、将来が楽しみだと私は思っている。借りると返さなくてはならない。それよりも、今の仕事がいつか廻って戻ってくることを楽しみにしていたいもの。

マーケティングは、顧客への一方的な貸付ではなく、顧客から「ありがとう」の言葉が返ってくる、貸し借りのバランス行動ですから。

Managenment Partner Staff
清野 裕司

旬刊独白66

感じたままに書かれた文章には、発信者の想いが溢れている。

 ビジネスのさまざまな場面で「提案力」「企画力」の必要性をよく聞く。
従来からも、企画することの重要性は唱えられてきたのだが、現在の経営環境にあっては、従来にはない新しい発想が待たれていることも確かである。

 提案するということは、まだ知られていないこと、思いついていないことを「気づかせる」ことから始まるもの。既に分かっていることを改めて言われても、さしたる驚きもなく、「言われるまでもないこと」と無表情な答えが返ってくることになるであろう。「気づき」を提示することは、聞く側にとっての感動を演出することに繋がる。そこにこそ、企画提示の楽しさ、面白さがある。何も知ったかぶりをして告げることではない。新しい見方や考え方を提示することである。マーケティング・スタッフに求められる資質やセンスは、自分自身の「気づき力」にあるといえよう。

世の中にある現象や事実に対して、自らが先ず疑問符を投げかけて考えてみる。「なぜこのようなことが起きるのか、なぜ今、このような商品や店が受け入れられるのか・・・」幾つもの疑問を自分自身に投げか浮かんでくる。そこからが問題。書き残しておかなければ、自分の気づきがどこかに飛んでいってしまう。忘れてしまうことになる。

折角思いついたのに、あの考えは何だったか。後になって思い出す。そして企画書に自分の想いを書き込もうとすると「作文」になってしまう。抽象的な文章が並び、現象や事象は丁寧に説明しているのだが、感動を呼ぶことはない。心が揺れない。作り込まれた文章は、どうしても説明的になってしまう。必要なことは、自分が感じたことをそのままに表現する「感文」にある。美しいものを「美しい」と書き込む力。感じたものがそのままに表現されることが、人への気づきを提供するものである。

マーケティングは、未来を予見し、まだ見ぬ世界を描き出すビジネス・アプローチである。作り込まれた「作文」よりも、自分自身が感じた心から発信された「感文」にこそ夢の説明力が内在していると、私は思っている

Managenment Partner Staff
清野 裕司

旬刊独白:今の時代は何色の風が漂っているのでしょうか。

旧来よりわが国には、移り行く四季を肌に感じ、暮らしの中に季節の様子を取り込んでいく、生活感性に深く溶け込んだ「四季」があったように思う。
四季の様子は色にも例えられ「青春・朱夏・白秋・玄冬」とる言われる。

「青・赤・白・玄(黒)」の各色は、巡り行く1年の中の変化だけではなく、大きな時代変化の時にも、その時代の雰囲気として使われた色分けでもあったかと思われる。1945年以降の、いわゆる戦後社会から今までに歌い継がれた歌の歌詞にも、その様子が見て取れる。

映画にもなった「青い山脈」やヒット曲として紹介される「リンゴの唄」の歌詞にも見られる(♪赤いリンゴにくちびるよせて だまって見ている青い空)が、戦後すぐの時期には「青」が頻出してくる。青い空は、戦争が終わった平和な社会の象徴であったような気がしている。

その後、1964年の東京オリンピックを経て経済成長の波に乗って、何となく社会には「熱」を感じさせるものが蔓延して「赤」が中核を占めていたようだ。美空ひばりの歌った「真っ赤な太陽」や松田聖子の「赤いスイートピー」。社会全体が、力を蓄えて前に進むことを意識していたように感じる。

1995年のバブル経済崩壊後は、一方的に力づくでも上昇気流に乗るというよりも、少しゆっくりと時を刻む「白」が取り上げられたり、その白を代表した「雪」が登場する印象が強かったように感じる。

そして今の時代。特に2020年以降は新型コロナウィルスの影響が至る所で見られるようになり、社会経済活動の停滞をきたした。働くスタイルが問い直され、1ヶ月の仕事が止まって経営が至らなくなる経済基盤の脆弱性が問われる時代になってきた。

このようにみてくると、時代変遷も「青→赤→白→玄(黒)」と移り変わるのだろうか。順送りから見れば、今の時代は「黒」。果たして、われわれが知恵を出し合って描く次の社会、Postコロナ時代には何色の風が漂うのだろうか。

Management Partner Staff
清野裕司

旬刊独白:「相身互い(あいみたがい)」という言葉を聞かなくなってしまった。

失われた〇〇年とも言われ、今世紀に入ってからの日本の社会は、何となく疲労感漂う顔付きや、未来を見ることのない眼を持った若者に出逢ったり・・・・。自分の気持ちを素直に出すことが出来なかったり、その想いを文字にすることが出来ない人が増えたりと、どうも現在、「考える力」が軟弱になった社会に住んでいるような気がしてしまう。

だからだろうか。相手のことや相手の立場を知ろうとせず、自分中心に世の中が回っているとでも思っているような人に出会う機会が増えてきた。街を歩いていると、都会では止む無く人とぶつかったり、大きなバックの角が当たったりすることは日常茶飯事。しかし、その瞬間の会話がない。ぶつけた方もぶつけられた方も無言。ただ、お互いに不愉快そうな顔をして行き過ぎるだけ。一言の「失礼」「ごめんなさい」を言う暇もないほど、先を急ぐ日々なのだろうか。決してそうは思えないときが多いのだが。

この国の文化は、お互いに痛みを分かち合う社会ではなかったのか。

「相身互い」という言葉がある。互いが互いの立場に立って考え、事にあたれば相互の理解が進むとの考えがあったはず。だが、いつの頃からか、そのような精神文化はどこかに行ってしまったようである。相手を思いやることがない社会では、当然相手の心の痛みや悩みは知るよしもないであろう。人を傷つけても、自らの心が痛まないのかもしれない。

マーケティングの根源は、顧客の立場を知ることに始まる。相手の立場に立って、その思考(志向)を読み解くことが何よりも必要である。まさに、自らも受け手に立って「相身互い」の思考回路を持たなければ、顧客に近づく施策など生まれないと思うのだが。

Management Partnar Staff
清野裕司

旬刊独白63:「さん」付けは、時と場をわきまえないと単なる記号になる。

新聞折込チラシの中に、小さな店のオープン案内を見て思ったこと。隣の駅の近くで、略図が掲載されている。駅前の商店街を抜けたCVSの少し先。しかし、その地図が何とも見にくい。サインになる他店の表記のわかりづらさが原因のようだ。CVSの固有名詞に「さん」付け、飲食店の店名にも「さん」が付してある。「セブンイレブンさん」「中華○○さん」、角にあるのが、ビューティサロンの「○○美容室さん」。他者に敬意を表したつもりだろうが、そのことに、どれ程の意味があるのか疑問である。

確かに新しい店にとってみれば、その地域の新参者であり、周囲に気を配るという考えもあるのであろう。しかしそれは何のため、誰のためなのか。チラシそのものの目的は、ご近所への気配りではなく近隣住民への挨拶、顧客化へのお願いであるはず。してみると、敬称をつけるべきは来店頂いた顧客に対してではないのか。

TV番組を見たり若者の会話を聞いていても、時に「OLさん」という言葉を耳にする。Wikipediaによれば、「OL」とは“「女性の会社員や事務員」を意味する和製英語”とある。そのまま日本語で言えば「事務員さん」になる。「魚屋さん」「八百屋さん」「歯医者さん」のような、店や職業の種類に「さん」を付けて固有名詞に近づけて親近感や敬意を表現することは昔からあった。ただ、いかに一般名詞に「さん」を付けても、た「OLさん」では固有名詞化することはない。ましてや、敬意を表する想いは感じさせないもの。「OLさん」があるのであれば「サラリーマンさん」と「さん」を付けても良さそうだが、ごろが悪いのか、そのような言い方に出会ったことはない。

その昔、夜の街では道行く人を捕まえては、誰かれ構わず「社長さん」などの呼び込みの声が聞かれた。してみると「OLさん」も、さしたる考えも無いままの普通名詞かと思える。

日本語の乱れといったレベルではなく、時と場にかかわりのない日本語が氾濫している。自分自身は、自らのレベルで、時と場をわきまえた日本語を発していきたいと思っている。

Management Partnar Staff
清野裕司

旬刊独白62:相手との「距離」を測ることから顧客関係はつくられる。

初めて会ったにもかかわらず、言葉遣いが馴れ馴れしい人がいる。ビジネスの関係もそうだが、デパートをはじめとして幾つかの店でそのような体験をすることが多くなったように感じる。店に入って、品定めをしている最中からもう友だち。「これなんか良くない?」と語尾の上がった節回し。「ちょ~似合ってるよ」と若者から励ましの言葉。途端に購買意欲が減退してしまう。

ビジネスの関係もしかり。出逢った最初は、おもむろに名刺の交換があり、何と gbなく、お互いが丁寧語でプロジェクトの進捗などをやり取りする。しかし2度目のミーティングがいけない。既にして友だち。「あ~、こないだはど~も。あの件、出来てる?!おーっ、さ~すが~」。何がさすがなのか、当方は当たり前の自分のペースで仕事をしたに過ぎない。特別に驚いてもらう必要も無い、ごく普通のことだ。しかし、30代前半と思しき男性にとってみると、時間通りに出来上がることは凄いことらしい。何とも言えぬ認識のギャップである。

最近は、親しくなることの履き違え状況によく出逢う。親しさと馴れ馴れしさの履き違えである。親しい関係とは、相手の様子や心情までも深くかかわりを持って知ることにより生まれる距離のことである。これ以上のことを言っては、相手が傷つく、あるいは自分自身が誤解される、といった一定の距離の中での想いが錯綜するもの。だからこそ、ビジネス上の関係が長く続くことにもなる。ずけずけと、容赦なく人の感情の中に土足で入ってこられたのではたまったものではない。親しさを超えた馴れ馴れしさであり、親しき中にも礼儀ありを知らぬ者といえよう。

馴れ馴れしい言葉遣いや態度を示すことが、相手との近接関係になると考える者もいるようである。しかし、そこには感情のやり取りは見受けられず、一方通行である。自らの価値観を押し付けようとする意図すら見え隠れする。相手を知ろうとする意識が薄いのは明らかである。

マーケティングの原点は、顧客の理解に始まる。顧客との距離は、馴れ馴れしく語りかけることではなく、先ずは自らの顧客の存在を知り、相手の立場に立って語りかけることにあるのだが。本質をわきまえなければ、間抜けのそしりは免れないものである。

Management Partnar Staff
清野裕司

投稿者:

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一刻一歩に最善を尽くそうと今もする。変わる鋭さと変わらぬ頑固さがある。 

瞬刊独白61

「環境」問題は、暮らしにいきる「おもいやり」のこと。

「環境」の文字に出逢うことが多くなっている。マーケティング・スタッフの仕事を通じて使うビジネス場面での環境は、まさに現在起きているビジネスの「状況」や「様相」のことであり、競争環境・業界環境・社内環境といった言葉が飛び交う。そのまま、競争の様子、業界の状況、社内の雰囲気と置き換えて解釈した方が具体的にイメージも広がっていく。

ただ最近は、ビジネスの環境に止まらず広い分野で「環境」の文字に出逢う。。地球温暖化に代表される、「地球環境」の問題。都市生活における「都市環境」「生活環境」。更には、人間関係の変化にともなう「社会環境」は、暮らしの変化を言うこともある。親子関係や兄弟の関係を話題にした「家庭環境」。もちろん自分自身のことを言う「体内環境」「口内環境」を謳った商品広告にも出逢うことが多い。

「環境」と言われると、自分自身の身の回りに対して、常に心しなければならない「思いやり」への警鐘のようにも聞こえてくる。地球上にある諸物を傷めることなく使う心や行動。人間関係を滑らかにする言葉や行動。社会の共有物を大切にする想い。時に自分の身体をいたわる心。その全てを「環境」の言葉で収めてしまうと、先ず何をすべきか、どう対処すべきかの判断がしにくくなってしまうような気がする。

ビジネス環境、マーケティング環境もしかり。環境変化に何をすべきか、どうすべきかを考えようとしたとき、「今起きている競争相手の動き」「自社製品の店頭での位置づけ」といった言葉に「環境」を置き換えて考えると、もう少し行動に転化出来そうである。

自分自身に起きている「環境」問題は何であろうか。改めてデスク回りの「環境:状況」を見直す。

           Management Partner Staff
       清野裕司

風の書庫⑨

コンサルタントは何をする人・・・?

個人的に、私は「経営コンサルタント」を標榜していない。ましてや「マーケティング・コンサルタント」とも言っていない。人には「自分はコンサルタントではなく、一人のスタッフとして現在のマーケティング課題や未来に向けた企業としての戦略を、内部スタッフと共に「頭に汗」しながら思考を巡らせる、外部にいる「内部スタッフ」であると伝えてきた。

その問題意識を都度整理してきたのが10冊の書になった。これらも決して、自説を押し付けるものではなく。あくまでも一人のスタッフの思考の回路を整理したに過ぎないものである。

学習会の折にも私は、教えるというスタイルではなく、自分自身はこのように学んできたといった、自らの学習姿勢を伝えてきた。それは今後も変わらぬ私のビジネススタイルである。

ここに、一般論としてのコンサルタントの役割を整理したものを掲出します。ご参考までに・・・。

コンサルティングのビジネス対応領域

瞬刊独白60

企業の未来には、ふたつの「はっしん」力が問われる。

日本における企業成立の時期に関する論は、さまざまある。住友家を代表に室町時代の商家の成立にその源流を見ることもあり、また、明治維新時の官業・民業の成り立ちを原点とすることもあるようだ。その後の時の流れの中で今、戦後の経済復興期以来続いてきた多くの日本企業のモデルが、新型コロナウィルスの影響をきっかけとして、社会・経済環境の変革が著しく、基本的な機能不全を起こし、新たな企業のあり方が問われている。

企業は何を目指すのか。どこに向かうのか。その方向が定まらぬままでは、企業自体の存在は不安定になってしまう。また、本来の夢が無いままでは、組織としての活力の動機付けも希薄になってしまう。自らの存在を問い直し、将来の組織の理想を思い浮かべるのは、何もトップだけの仕事ではない。組織構成員一人ひとりの描く未来そのものを、考え描く時代でもある。

一般的に企業の戦略は、外部環境変化に適応すべく、自らの資源の最適配分行動と理解されている。しかし、従来から言われる戦略構造化の論理は得てして、環境変化の読み込みと自社資源の分析に主眼が置かれてきたきらいがある。新時代の戦略デザインには、まず夢想した未来像(ビジョン)への行動計画を描くことが第一であろう。

今、企業に求められるのは、まさに今世紀ビジョンの構想であり、具体的な表現である。将来方向を示唆したビジョンは、経営の意志表明であり、市場との対話の基点となる発言と捉えることができる。しかも、ただ語っただけでは何の変化も始まらない。発信すると共に、動き始めること、「発進」する力が必要になる。

この問いかけは、企業経営に限ることではない。わが国自体に投げかけられていると思っている。自分の在るこの国も、未来に向けた「発信と発進」の力が今、求められているのではないだろうか。

Management Partner Staff
清野裕司

旬刊独白59

コクーン(cocoon:まゆ)の思考では未来は描けない。

この数年、自分自身の気分もそうなのだが、社会的に何とは無しの淀んだ空気がある。コロナウィルスやウクライナの問題に限らず、毎日見聞きするニュースに、明るく気分を高めてくれるものが少ないからだろうか。国際的な事件や社会制度上の問題に限らず、身近でも驚きを感じさせる事件が起きている。TVやネットで見るに堪えず、聞くに堪えない話題に多く接する。

こうした社会環境の中で、それでも更に新しいビジネスチャンスを発見しようと心掛けるのがマーケティング・スタッフのもつ宿命的役割である。時代の風に流されると、どうしても暗い話が中心になり、そして、他者のことではなく自分たちのことだけを考える罠に陥ってしまう。

一つの商品がヒットをして、多くの生活者に受容されると、一気呵成に同質の商品が溢れかえってくるのも、その現われかと思うことがある。健康を意識する生活が当たり前になり、自分のことは自分で護る、といった意識の高揚があると、健康の細分化が始まる。「中性脂肪」対応、「血糖値」対応、「疲労回復」対応・・・まさに百花繚乱。受け手である生活者側も、情報や商品機能を峻別するのが大変。何を、誰を信じればよいのかがはっきりしなくなってしまう。TVから流れる情報も、新聞や雑誌を読んでも、ネットで検索してみても、どれもこれも身体に良さそうで迷い道にはまってしまう。

相手の立場に立って考えれば、リアルな情報の提供こそが重要であることはわかっているのだが、その状況をどのように伝達するかを熟慮しなければならない。しかし、いま流行っているものにそのまま乗ってしまう動きが急になり、“業界こぞって”といった動きの中に身を置いていた方が、安全で安心の気分になるのだろうか。

ある世界に入り込んでしまうことの怖さがある。その世界から自分の身を出そうとしなくなってしまうからである。さながら、繭(まゆ:cocoon/コクーン)のように、身を護ることに意識が働く。マーケティング・スタッフがコクーンになってしまっては、暗い部屋に閉じこもった引きこもりになってしまう。マーケティングは、殻を破って未来を描く思考をガイドしているのを忘れずにいてほしい。

Management Partner Staff
清野 裕司

旬刊独白‐58

「Skill-Sense-Style」のバランスを身に付けているか。

学びの場として、社会人対象の大学院が注目されている。夜間に就業後、自らのキャリア・アップを図るべく、新しい知見を求めて学習の場へと参加する。今までに知らなかったこと、知っていたが忘れてしまったこと。かつては拒絶反応を示していた分野も、時を超えて改めて接すると、従来にはない鮮度感覚で吸収できることもあるものである。まさに、学生時代には何事かを「習う」姿勢でしかなかった者が、自らの発見に繋がる「学ぶ」ことの楽しさを、社会人になって実感する時ではないかと推測する。

何よりも、新たな分野での自らの発見があるのは、自分自身の考え方やものの見方を広いものにする。楽しさも広がるもの。「習う」のは、比較的あることに対する方法論の修得に止まってしまい、Skill(技法・技能)を身に付けることに終始してしまうもの。Skillは一度やり方を理解すれば、後は繰り返しての訓練によって深まる可能性があるが、ビジネスはそれだけに止まるものではない。

必要なことは、モノを見る眼・考える視点の広がりにある。専門性はベースにはなるが、狭い領域に閉じこもったのでは発見が乏しくなってしまう。Skillを超えたSense(感覚・認識)の深まりが求められよう。さまざまなモノや人との出逢いがSense向上の糸口になる。視野を広めるとは昔から言われたことでもある。

更には、SkillやSenseを基軸として、自分なりのビジネスStyle(様式・型)をつくりだすことが出来るかどうかが必要である。何となく雰囲気を感じさせるビジネス個性とも言えるのではないか。その人らしさを感じさせるものが、身に付くかどうかということである。

従来のビジネス分野での学習・研修の場は、どちらかと言えばSkill獲得を目的としたものが主流を占めていた。しかし今、マーケティング・スタッフに求められているのは、画一的・定式的な方法論を知っていることではなく、知識を超えた見識である。

だからこそ、Skill-Sense-Styleの3Sバランスが必須になることを忘れてはならない。

Management Partner Staff
清野裕司

旬刊独白-57

「かえる」心をもって「かわる」ことを志すことが次を創る。

長く生を受けていると、ひと時昔を思い起すことがある。かつての自分は、なぜ今出来ていることが出来ずに悩んでいたのだろうかと、不思議に思うこともある。人はすべてのことが出来るのではなく、人それぞれに似合った能力を発揮するものだと思い知る時である。そして、本来自分はもっと違うことも出来る(出来た)のではないかとも思ってしまうことがある。そう思いながら、自分自身を省みることがあるのではないか。人間の眼は、前を見るように出来ている。しかし、後を見ることも時には必要ではないかと考えている。前だけではなく後を見る。まさに「かえる」ことの必要性である。

ただ、一言で「かえる」といってもさまざまあるもの。意味の違いが漢字にも現れる。

1.ピンチをチャンスに「変える」:
→ネガティブ思考をポジティブ思考に変えること。

2.素材・部品を「代える」:
→今あることの代用品で済むのなら、無駄の排除になるかもしれない。

3.視点と立場を「換える」:
→相手の立場になって考える時間も必要である。

4.組み合わせを「替える」:
→メンバーを替えると思考の回路も変わる可能性がある。

5.手順・方法を「改える」:
→目標に向かって進む方法も様々あることを忘れていないか。

6.初心に「返える」:
→慣れてくると、自分の過ちが見えなくなってしまうことがある。

7.最初に「還える」:
→今やっているやり方を見直すためにも最初に戻ってみる。

8.すべて原点に「帰る」:
→何に対しても不思議だと思う子どもの感性が薄れていないか。

時代の変わり目には、その変化を見る眼を鋭敏にしておかなければ、いつの間にか時代遅れ、時代錯誤の偏ったモノの見方に陥ってしまう。たまには、呪文のように「かえる」コールを自問してみるのもよいものである。

Management Partner Staff
清野裕司

旬感独白-56

マーケティング実践の姿勢に「メリハリ」は欠かせない

人の話を聞いて、内容自体よりもその語り口から深く印象に残ることがある。。語り口の妙であろうか。ただ、だらだらと繰り返されるような話ではなく、心に残るキーワードが幾つもちりばめられていると、その言葉を聴いただけで、改めてその折の状況が思い起こされるものである

よく言われることですが、プレゼンテーションの場において、聞いている側が何を聞いたかを記憶しているのは、全体記憶総量100の内の7%ほどでしかないとのこと(メラビアンの法則)。
それ以上に、話を聞いた時の状況については
38%。誰から聞いたかという提案者自身のことの記憶が55%だといわれている。

プレゼンターの人柄が問われる場面である。「あの人が言ったことだから信じられる」「あの人の話は昔から信じられない」といった声を聞くことがある。話の内容そのものよりも、その周辺の情報の方が鮮明な記憶として残るということで、人柄という面もあるだろうが、それ以上に話しっぷりである。歯切れ良い会話は、印象を強くし、記憶への刷り込みも、アクセント強く残るもの。

その原点は「メリハリ」のある語り。「メリハリ」は「減り張り」。一方的に自説を説き伏せるような発信だけでは、聞いている側が退(ひ)いてしまうであろう。かといって弱々しければ、聞いている側は不安を感じてしまうもの。まさにそのバランスを考えることである。押すだけではなく退く。退くだけではなく押す。

両方が100%満たす合意形成を目指そう – 対話力育成コーチ武のブログ会議の場で、一方的に自説をとうとうと語るスタッフがいる。参加者の合意を形成しながら前に進めていく場でありながら、なかなか妥協しない。意味ある反発であるならばよいのだが、感情的な反発である場合が多いようだ。これが厄介。たまには退いてみることも必要である。その方が共感者も増えることを忘れてはならない。

マーケティングにも「減り張り」は欠かせない。一時的に退いても、それは次の張り出しのための弾みをつける動作にも繋がっている。プランニングの妙がそこにあることも伝えておきたい。

Management Partner Staff
清野裕司

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