「広告新聞」を見て、新聞の役割は何かを考えた。
ある日の午後の出来事。その日の夕刊は、一面の一部を斜めに読んでそれ以外は全く眼を通さなかった。どの紙面を見ても、これ見よがしに同じメーカー、同じ商品の広告が続いたからである。新聞とは何か。新しい情報にゆっくりとアクセスして、自分なりの所感を多くの事実から読み解こうとする時もあれば、娯楽やスポーツのコメントにひと時のやすらぎを感じることもある。しかし、当日のそれは購読者の自由な意志を全く無視した紙面であった。
広告がこの世に不要と思ったことはない。広告に接して心が豊かになることがある。ものごとを考える糸口を教えてくれることもある。そして何より、今までに知ることの無かったモノやサービス、そして場所や人を教えてくれる。低廉にして深みのある情報を提供してくれるメディアであり、最近の若者が新聞を定期購読しない傾向が高まっていることに、残念だと思ったこともある。
しかし、余り美しくイメージを広げすぎていると、しっぺ返しがあるもの。
一社一商品の広告が占拠した新聞では、新しいことを聴こうとの思いにはならない。眼で字を追い、字の刺激から自分の脳の記録が書き換えられていくのであれば、眼で聴くメディアを今の時代の中から自由に選択すれば良い、ということを教えて貰ったような気がする。じっくりと眼で読んでいても、周りの広告の色や文字が自然と眼に入ってきてしまう。静寂な空間上の時間のやり取りに対して、苛立ちすら感じさせる景色になってしまう。
新しさを集中的に説明しようとして、トライアルの需要を刺激しようとする施策に反論があるわけではない。しかし、紙面を制覇したような顔つきの商品と、その状況を甘んじて受け容れている新聞の顔が良くない。新しさを紹介した商品。少なくとも、私はその登場の場面で既に嫌気がさして、どこで出会っても買おうとは思わない。
Management Partnar Staff
清野 裕司