瞬刊独白60

企業の未来には、ふたつの「はっしん」力が問われる。

日本における企業成立の時期に関する論は、さまざまある。住友家を代表に室町時代の商家の成立にその源流を見ることもあり、また、明治維新時の官業・民業の成り立ちを原点とすることもあるようだ。その後の時の流れの中で今、戦後の経済復興期以来続いてきた多くの日本企業のモデルが、新型コロナウィルスの影響をきっかけとして、社会・経済環境の変革が著しく、基本的な機能不全を起こし、新たな企業のあり方が問われている。

企業は何を目指すのか。どこに向かうのか。その方向が定まらぬままでは、企業自体の存在は不安定になってしまう。また、本来の夢が無いままでは、組織としての活力の動機付けも希薄になってしまう。自らの存在を問い直し、将来の組織の理想を思い浮かべるのは、何もトップだけの仕事ではない。組織構成員一人ひとりの描く未来そのものを、考え描く時代でもある。

一般的に企業の戦略は、外部環境変化に適応すべく、自らの資源の最適配分行動と理解されている。しかし、従来から言われる戦略構造化の論理は得てして、環境変化の読み込みと自社資源の分析に主眼が置かれてきたきらいがある。新時代の戦略デザインには、まず夢想した未来像(ビジョン)への行動計画を描くことが第一であろう。

今、企業に求められるのは、まさに今世紀ビジョンの構想であり、具体的な表現である。将来方向を示唆したビジョンは、経営の意志表明であり、市場との対話の基点となる発言と捉えることができる。しかも、ただ語っただけでは何の変化も始まらない。発信すると共に、動き始めること、「発進」する力が必要になる。

この問いかけは、企業経営に限ることではない。わが国自体に投げかけられていると思っている。自分の在るこの国も、未来に向けた「発信と発進」の力が今、求められているのではないだろうか。

Management Partner Staff
清野裕司

旬刊独白59

コクーン(cocoon:まゆ)の思考では未来は描けない。

この数年、自分自身の気分もそうなのだが、社会的に何とは無しの淀んだ空気がある。コロナウィルスやウクライナの問題に限らず、毎日見聞きするニュースに、明るく気分を高めてくれるものが少ないからだろうか。国際的な事件や社会制度上の問題に限らず、身近でも驚きを感じさせる事件が起きている。TVやネットで見るに堪えず、聞くに堪えない話題に多く接する。

こうした社会環境の中で、それでも更に新しいビジネスチャンスを発見しようと心掛けるのがマーケティング・スタッフのもつ宿命的役割である。時代の風に流されると、どうしても暗い話が中心になり、そして、他者のことではなく自分たちのことだけを考える罠に陥ってしまう。

一つの商品がヒットをして、多くの生活者に受容されると、一気呵成に同質の商品が溢れかえってくるのも、その現われかと思うことがある。健康を意識する生活が当たり前になり、自分のことは自分で護る、といった意識の高揚があると、健康の細分化が始まる。「中性脂肪」対応、「血糖値」対応、「疲労回復」対応・・・まさに百花繚乱。受け手である生活者側も、情報や商品機能を峻別するのが大変。何を、誰を信じればよいのかがはっきりしなくなってしまう。TVから流れる情報も、新聞や雑誌を読んでも、ネットで検索してみても、どれもこれも身体に良さそうで迷い道にはまってしまう。

相手の立場に立って考えれば、リアルな情報の提供こそが重要であることはわかっているのだが、その状況をどのように伝達するかを熟慮しなければならない。しかし、いま流行っているものにそのまま乗ってしまう動きが急になり、“業界こぞって”といった動きの中に身を置いていた方が、安全で安心の気分になるのだろうか。

ある世界に入り込んでしまうことの怖さがある。その世界から自分の身を出そうとしなくなってしまうからである。さながら、繭(まゆ:cocoon/コクーン)のように、身を護ることに意識が働く。マーケティング・スタッフがコクーンになってしまっては、暗い部屋に閉じこもった引きこもりになってしまう。マーケティングは、殻を破って未来を描く思考をガイドしているのを忘れずにいてほしい。

Management Partner Staff
清野 裕司

旬刊独白‐58

「Skill-Sense-Style」のバランスを身に付けているか。

学びの場として、社会人対象の大学院が注目されている。夜間に就業後、自らのキャリア・アップを図るべく、新しい知見を求めて学習の場へと参加する。今までに知らなかったこと、知っていたが忘れてしまったこと。かつては拒絶反応を示していた分野も、時を超えて改めて接すると、従来にはない鮮度感覚で吸収できることもあるものである。まさに、学生時代には何事かを「習う」姿勢でしかなかった者が、自らの発見に繋がる「学ぶ」ことの楽しさを、社会人になって実感する時ではないかと推測する。

何よりも、新たな分野での自らの発見があるのは、自分自身の考え方やものの見方を広いものにする。楽しさも広がるもの。「習う」のは、比較的あることに対する方法論の修得に止まってしまい、Skill(技法・技能)を身に付けることに終始してしまうもの。Skillは一度やり方を理解すれば、後は繰り返しての訓練によって深まる可能性があるが、ビジネスはそれだけに止まるものではない。

必要なことは、モノを見る眼・考える視点の広がりにある。専門性はベースにはなるが、狭い領域に閉じこもったのでは発見が乏しくなってしまう。Skillを超えたSense(感覚・認識)の深まりが求められよう。さまざまなモノや人との出逢いがSense向上の糸口になる。視野を広めるとは昔から言われたことでもある。

更には、SkillやSenseを基軸として、自分なりのビジネスStyle(様式・型)をつくりだすことが出来るかどうかが必要である。何となく雰囲気を感じさせるビジネス個性とも言えるのではないか。その人らしさを感じさせるものが、身に付くかどうかということである。

従来のビジネス分野での学習・研修の場は、どちらかと言えばSkill獲得を目的としたものが主流を占めていた。しかし今、マーケティング・スタッフに求められているのは、画一的・定式的な方法論を知っていることではなく、知識を超えた見識である。

だからこそ、Skill-Sense-Styleの3Sバランスが必須になることを忘れてはならない。

Management Partner Staff
清野裕司

旬刊独白-57

「かえる」心をもって「かわる」ことを志すことが次を創る。

長く生を受けていると、ひと時昔を思い起すことがある。かつての自分は、なぜ今出来ていることが出来ずに悩んでいたのだろうかと、不思議に思うこともある。人はすべてのことが出来るのではなく、人それぞれに似合った能力を発揮するものだと思い知る時である。そして、本来自分はもっと違うことも出来る(出来た)のではないかとも思ってしまうことがある。そう思いながら、自分自身を省みることがあるのではないか。人間の眼は、前を見るように出来ている。しかし、後を見ることも時には必要ではないかと考えている。前だけではなく後を見る。まさに「かえる」ことの必要性である。

ただ、一言で「かえる」といってもさまざまあるもの。意味の違いが漢字にも現れる。

1.ピンチをチャンスに「変える」:
→ネガティブ思考をポジティブ思考に変えること。

2.素材・部品を「代える」:
→今あることの代用品で済むのなら、無駄の排除になるかもしれない。

3.視点と立場を「換える」:
→相手の立場になって考える時間も必要である。

4.組み合わせを「替える」:
→メンバーを替えると思考の回路も変わる可能性がある。

5.手順・方法を「改える」:
→目標に向かって進む方法も様々あることを忘れていないか。

6.初心に「返える」:
→慣れてくると、自分の過ちが見えなくなってしまうことがある。

7.最初に「還える」:
→今やっているやり方を見直すためにも最初に戻ってみる。

8.すべて原点に「帰る」:
→何に対しても不思議だと思う子どもの感性が薄れていないか。

時代の変わり目には、その変化を見る眼を鋭敏にしておかなければ、いつの間にか時代遅れ、時代錯誤の偏ったモノの見方に陥ってしまう。たまには、呪文のように「かえる」コールを自問してみるのもよいものである。

Management Partner Staff
清野裕司

旬感独白-56

マーケティング実践の姿勢に「メリハリ」は欠かせない

人の話を聞いて、内容自体よりもその語り口から深く印象に残ることがある。。語り口の妙であろうか。ただ、だらだらと繰り返されるような話ではなく、心に残るキーワードが幾つもちりばめられていると、その言葉を聴いただけで、改めてその折の状況が思い起こされるものである

よく言われることですが、プレゼンテーションの場において、聞いている側が何を聞いたかを記憶しているのは、全体記憶総量100の内の7%ほどでしかないとのこと(メラビアンの法則)。
それ以上に、話を聞いた時の状況については
38%。誰から聞いたかという提案者自身のことの記憶が55%だといわれている。

プレゼンターの人柄が問われる場面である。「あの人が言ったことだから信じられる」「あの人の話は昔から信じられない」といった声を聞くことがある。話の内容そのものよりも、その周辺の情報の方が鮮明な記憶として残るということで、人柄という面もあるだろうが、それ以上に話しっぷりである。歯切れ良い会話は、印象を強くし、記憶への刷り込みも、アクセント強く残るもの。

その原点は「メリハリ」のある語り。「メリハリ」は「減り張り」。一方的に自説を説き伏せるような発信だけでは、聞いている側が退(ひ)いてしまうであろう。かといって弱々しければ、聞いている側は不安を感じてしまうもの。まさにそのバランスを考えることである。押すだけではなく退く。退くだけではなく押す。

両方が100%満たす合意形成を目指そう – 対話力育成コーチ武のブログ会議の場で、一方的に自説をとうとうと語るスタッフがいる。参加者の合意を形成しながら前に進めていく場でありながら、なかなか妥協しない。意味ある反発であるならばよいのだが、感情的な反発である場合が多いようだ。これが厄介。たまには退いてみることも必要である。その方が共感者も増えることを忘れてはならない。

マーケティングにも「減り張り」は欠かせない。一時的に退いても、それは次の張り出しのための弾みをつける動作にも繋がっている。プランニングの妙がそこにあることも伝えておきたい。

Management Partner Staff
清野裕司

旬刊独白-55

マーケティング思考に「なれあい」は禁物。

自分が真剣に話をしている折に、意味もなく笑う輩がいる。話の内容にもよるのだが、仕事の内容や企画案件の肝になることを集中して話している時は、相手の姿勢によっては、話をしている側の気が萎えてしまう。その後の話をする気がなくなってしまう。話し手と聞き手の双方が長く知り合っている者同士の場合に、よく体験する場である。まさに「慣れ合う」状況と表現できよう。新しい気付きや発見の乏しい「なあなあ」のやり取りが横行する時である。

ただ、長い付き合いになっていたとしても、儀礼を超えた豊かな会話もある。朝の散歩の折に、ほぼ毎日出会う人。自分の連れた小犬に話しかけるように、にこやかな顔つきの方に出逢う。こちらも、何となく穏やかな顔つきになって、近づけばお互いに元気な声で「おはようございます」の挨拶。時に季候のあいさつが加わることもある。朝のひと時に、なごやかな空気が漂う、まさに「馴れ合い」のやり取りである。

しかし同じ馴れ合いでも、気分を悪くするものもある。「なれあい勝負」の八百長問題。広辞苑によれば「八百長」とは「明治初年、通称八百長という八百屋が、相撲の年寄某との碁の手合わせで、常に1勝1敗になるようにあしらったことに起こるという」とある。結果がわかっていることに対しては、当然その時々の驚きも感動もない、嫌な「なれあい」である。

国会の答弁を聞いていても、時に「なれあい」を感じることがある。本質をなかなか突くことが出来ず、先日聞いたやり取りと同じ様子を繰り返しニュースで見せられたのでは、真剣さが伝わってこない。

では、マーケティングの世界での「なれあい」は何であろうか。

「従来品と同じような内容でありながら、さも最新の製品であるかのように伝えるメッセージ」。
「自分の頭で考え抜いたとはとても思えない、良く見慣れた企画書」。
「定期的なミーティングで、長幼を超えた会話をするスタッフ」。その「なれあい」は親しみ過ぎて礼を欠く「狎れ(なれ)あい」である。

マーケティングを展開するのであれば、何事にもなれることなく、日々の鮮度を心したいと思っている。

Management Partner Staff
                     清野裕司

旬刊独白-54

顧客から「私の店」「私のもの」と言って貰えること。

コロナ禍もあり、この数年みかけることが残念ながら減ってしまってはいるが、季節を問わず、仲間とのコミュニケーションの場を求めて生ビールを飲み干すシーンが年に数回はあったもの。1杯2杯と杯が進み、普段は小声の人までが声高に会話を始め、隣の集団の話題までが、聞くでもなく聞こえてくる空間になったりする。「ちょっと1杯」の誘い文句が、いつの間にやら「空いたジョッキが一杯」の状況。やはりこれでは、コロナウィルスに入り込む余地を広げてしまっているようなものだ。

その後、どうもビールの飲み比べだけでは物足りなくなってしまうようで、次なる店の物色が始まる。足もとがおぼつかなくなっている御仁もいる。何とか近場で気の利いた店はないか。スマホ・携帯の電話帳が活躍し始める。また、エリア内の検索も始まる。情報社会の縮図が現出する瞬間である。そして仲間の内の一人が喜々として声を発する。「じゃ、僕の店に行きましょう。そう、俺の店に・・・」といった声。次なる店が決まり、皆の安堵の声と次への行動準備に移るという集団行動。新橋駅頭などでよく出会う光景であった。

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ところで「僕の店」「俺の店」「私の店」とは、どのような店のことであろうか。発言した本人が経営しているわけもなく、出資したわけでもない。また、家族が関与しているわけでもない。ただ、過去に数回行ったことのある店に過ぎない。過去体験によって、その店の雰囲気やメニュー、更には料金までがだいたい予測できる。一緒に行くメンバーの、予算レベル、趣味の範囲、料理の好み・・・等々から判断して、自分なりに妥当と判断した店が「自分の店」であろうか。

馴染み度の深まりは個人差はあるものの、過去の使用頻度・接触頻度と相関するようだ。馴染み度が深まれば、それだけ安心感・納得感も深まりを増す。行く度に新しさを感じさせる店、楽しい会話の待つ店。顧客と店との関係は、自ずと密接なものになるものである。

多くの顧客から「私の○○」と言って貰えること。マーケティングのなすべき役割は、「私の商品」「私の店」といわれるレベルへの創造行為と見ることが出来るのだが、如何せん、この3年はそのような機会すら奪ってしまった。やはり、マスクをつけたりとったりでの焼鳥の味は、ちょっと息苦しい。

望むは、「自分の店」といえる体験を、何の条件もなしで積み重ねることのできる社会の再現である。

Management Partner Staff
清野 裕司

旬刊独白-53

マーケティングは、顧客との合意形成プロセスでもある。

同じ時に同じ場面の体験をしても、人によってその折々の印象や感覚は異なったものとして残るもの。ある人にとっては感動的なことであったとしても、他者にとってみればさしたる感動をもたらさないことがある。人それぞれに、積み重ねてきた歴史や知見は異なるものであり、同じ刺激に対しての反応が異なるのは当然である。ある時間を共有していた学生時代の友人に、自分自身が体験し刺激を受けたことを話しても、その時に一緒していたにも拘らず、ほとんど記憶に残っておらず、ましてや刺激など受けてもいない。不思議にも思うのだが感覚は人それぞれなので、当然といえば当然である。

しかし、ある目的を持ってゴールを目指して多くのメンバーと共に行動をする際には、一人ひとりの感覚や感性を各自が勝手にゴリ押ししたのでは、ことは運ばなくなってしまう。目的を共有し、目指すべき目標に向かってチームメンバーが合意のもとで力を合わせる。決してきれいごとではなく、日々の仕事はそのような動きをもって進むものである。全員の合意が、責任の所在を不鮮明にするというのではなく、各自の役割を明解にしながら、多くの意志を統合することが、チームを預かるリーダーの役割にもなるであろう。

当然、全員が納得するとなれば、腹を割った話し合いも必要になる。その議論の過程では、他者の意見に対する「反論」もあることが考えられる。ただひたすら押し黙って、事の成り行きに身を任せ、決まったことを渋々やっていたのでは、プロジェクト自体が滞ってしまう。また、所期の目的を達成することも難しくなる。「合意形成」とは、さまざまな意見を丸めて、総花的で角の取れた結論を導くことではない。ある一人の人の意見に全員が賛同することもあり得るであろう。また、たとえ「反論」があったとしても、何に対しても「反対」の姿勢では後ろ向きになってしまう。

そのように考えると、マーケティングの思考の基本は、仲間や顧客との「合意形成」のプロセスにあると捉えることが出来るであろう。数年前、インターネット空間で話題になった「顧客の十戒」を、今一度読み直してみるとよい。

Management Partner Staff
清野 裕司

※PDF:顧客の十戒

旬刊独白-52

マーケティングの思考力や実行力は、顧客が育てるものです。

飲食店の中に、いつ行っても人だかりの絶えない店もあれば、いつ覗いてもひとりとして客の姿を見ることのない店がある。当然、前者の店には何気ない活力が感じられ、後者は薄暗い印象を与えてしまい、次回近隣に来た折には、もうなくなっているかもしれないと思わせてしまうもの。

それ故なおさら、外からの景色を見ても足を踏み入れようとする気が起きてこない。顧客と店との間に、循環する息遣いが感じられない。空気が揺れている感じがしないので、まさに無音状態である。例えその店ならではのオリジナルなものがあったとしても、顧客評価を得るのは難しいのではないかと思ってしまう。

それに比べて客の賑わいを見る店は、その店を飾る壁面の絵や小道具、働く人のごく普通の振る舞いまでが、他の店とは違った印象を与えるのだから不思議である。さしたる料理でもないのに、さながら料理の載った皿が何かを語りかけてくるようにすら感じさせる。空気自体に揺らぎがあり活気を感じさせる。

店サイドが意図して生み出していることもあろうが、それ以上にこれは、一方的な店サイドの操作によるものではなく、その店にいる顧客が生み出しているようである。

企業の提供する商品やサービスも同様のことが言える。例え、つくる側が納得して「これこそが最高のもの」と思っても、購入者・使用者側がその良さを評価しなかったならば、単なる企業サイドの独り善がりに過ぎなくなってしまう。その逆に不安半分で上梓したものが、多くの顧客に支持され成長していくこともあるもの。営業担当者の人間的な成長過程にも、同じことが見られる。一生懸命に自分のことを売り込もうとする動き。商品説明に汗を流す姿。そのスタイルに共感をもってくれた顧客が、ある時は厳しく、ある時はやさしく導いてくれる。顧客との関係を励みに、営業担当者も自らを磨こうとする。芸人の世界も同様で、見る人、聞く人がその芸人の芸に磨きをかけるのであって、TVでよく聞こえてくる面白くもないところでの笑い声では、芸人はその芸を磨くチャンスを逃してしまうことになる。

マーケティングの実践にあっては、「生み出された商品やサービスは顧客が育てるもの」との謙虚な姿勢が求められている。

Management Partner Staff
清野 裕司

 

旬刊独白-51

かけっこの一等賞を褒賞してもいいと思うのだが。

毎朝のように私がワークデスクを借りている麹町に出向くべく、最寄りの駅に向かう時間と、小学生が登校する時間とがほぼ一緒になる。数名が連れ添って楽しそうに話しながら学校に向かう子どもたちや、通勤の大人の横をすり抜けるように駆けていく子どもたちを見ていると、その昔、昭和の時代に小学生だった自分の頃と、着ているものは上等にはなっているが、その行動は変わらないと思ってしまう。

授業の内容や、学習の仕方も時代に適応すべく大きく変わってきているのであろう。しかし、いつの頃からであろうか。運動会(今は、この呼称すら変わっているようだが)のこと。徒競走(かけっこ)で一番にテープを切ろうが、最後にゴールにたどりつこうが、一等の子が褒賞されることがなくなってしまった。

既に、セピア色の写真を眺めるような時を重ねて来た者として、その昔を懐かしんでいるわけではない。一番でゴール・テープを切った時の感激、何着かに敗れた時の悔しさは、未だに残る記憶の一つである。1番も2番も、そして最後での到着も、皆一様にゴールを目指して精一杯頑張ったのだから、全員でその頑張りをたたえあうこと。確かに一理あるようにも思われるのだが、一番にゴールした者は他者より、間違いなく早く

目的地に到着した者であり、走るという能力では、そのグループ内で誰よりも勝った能力を発揮した者である。最後に到着した者は確かに頑張ったが、徒競走という同一ルール内の場では力を発揮し切れなかった者でもあり、そこに優位な差はないのだろうか。

よく聞かれる言葉に「何事にも平等な対応をする」ことの重要性があることに反意はない。確かに正論に聞こえる。しかし、そこでの平等とは何であろうか。皆を同じく捉え、差を明示しないことが「平等」なのだろうか。同じルールに基づいて行われたことで生まれた差を、明快にすることの方が重要なのではないかと私は思うのだが。

算数で100点を取った子と徒競走で一等賞を取った子は、共にある分野で有為さを持った子であり、それ相応の対応をすることを考えることが「公平」なのではないのか。同一を語るのではなく、機会均等を論じる方が重要ではないかと私は考えている。

Management Partner Staff
清野 裕司

旬刊独白-50

リアリティはつくられたものではなく、今起きている事実。

日常の生活行動の中で、テレビを通じた情報収集の時間の割合が徐々に減ってきている。インターネットを通じたものや、雑誌等の文字情報に接することの方が多くなってきたように思える。その日のニュースは見るのだが、ドラマなどは、その時々で話題になっているものを見流す程度。こちらから積極的に見ようと動機付けられるような番組がないことが大きな理由である。と言うよりも、余りにもつまらないからである。

過去に作られたものを、さも今のように伝える嘘くささ。結論を待つ瞬間に場面が転換し、再開時に繰り返し戻って同じ場面を見る空しさ。ちょっとでも注目されると、さながら消耗品のように登場してくるタレントを見る退屈さ。世間で流行っている言葉をそのままドラマのタイトルにする軽薄さ。どこから見ても、視聴するに値する番組が余りにも少ない。特にリアリティの欠落は致命的である。

虚構の世界は、かつては映画がその役割を担っていたのだが、TVが同類になってしまったように感じる。時代の今を伝えるべきものが、今ではない時につくられたモノを承知で、視聴者も今の気分で見ている。どこまでが本来の時間なのかを忘れてしまう。正月に流れた番組でも、年が変わっているにもかかわらず出演者が「来年」と口走ってしまう。視聴者側も、今流れている番組が、今つくられているものではないことを承知している。

草創期のTVドラマは、その時に演じている事実を提供していた。そこには、何ともいえぬ緊張感があったものである。うまく演じられなかった瞬間がある。裏方の動きが見えている場合もある。それだけに真剣。見る側も失敗を許さないのではなく、容認しながら見ていた。動きを無理に止めて、場面転換することもない。それだけに、次の展開が楽しみになる。

懐古趣味に陥って昔を懐かしがるわけではない。入念に事前チェックがなされたモノにこそ、時代性を感じるもの。リアルな動きや会話。マーケティングに求められるのも、今をリアルに考える思考であることを忘れてはならないと思っている。

 

旬刊独白-49

創造性を育むには「ごっこ」の思考が欠かせない。

既に半世紀以上の時が流れた1960年代昭和の話。子どもたちの遊び場は、今も時に「ドラえもん」には登場してくるが、家の近くの原っぱや空き地だった。今の環境からすれば危険極まりないところで、仲間と生み出した遊びに夢中になっていたものである。映画にもなった「三丁目の夕日」に登場してくるような景色は、既にセピア色の郷愁すら誘う時が流れた景色である。

その頃の遊びに、さまざまな「ごっこ」があった。「鬼ごっこ」「電車ごっこ」「怪獣ごっこ」「探偵ごっこ」・・・・。誰かのアイデアが仲間全体の遊びに昇華して、「ごっこ」は擬人的な真似の世界を自分たちの世界に引き込むものである。そのためには、かなり厳格なルールが必要である。これは、リーダー(ガキ大将)が言い出したとしても、メンバーの合意形成がないと成り立つものではない。小さいながら、組織の基本ルールに沿った「ごっこ」の真面目なルールが形成される。そして皆真面目に、それぞれの役割になりきる。なりきらなければ「ごっこ」にはならないからである。

「電車ごっこ」であれば、運転手・車掌役の子は、見てきたこと、聞いてきたことを基本に、出来るだけリアルに演じる。だからこそ、その場の仲間はますますその気になる。

最近、そのような「ごっこ」に出会うことが殆ど無くなてしまったように感じる。リアルに近いモノが既に準備されてしまっている。そうすると、準備された道具をうまく操作することに長けた子どもが増えてくる。操作性は高まるが創造性はどうか。「ごっこ」は想像の世界でのこと。そこでの体験から、自然と「創造する力」を育んでいた。

今、新たなマーケティング・モデルの創出が待たれている。マーケティング・スタッフに「ごっこ」のマインドが必要な時代である。体験をベースにしたシミュレーションを、あるルールの中で真面目にやってみる「ごっこ」をビジネスの中で展開することが、新しい発想を生むきっかけになるかもしれない。

かくいう私は、
40年にわたって「会社ごっこ」をしてきたのかもしれない。

Management Partner Staff
清野 裕司

旬刊独白-48

曇天を貫こうとする気概で「前へ!」の志をもっているか。

2022年も半分。6月の梅雨の鬱陶しい曇天が続いている。この季節に正月の話をするのはいかにも気の早いことではあるが、イベントの内容ではなく、キャッチフレーズのことである。
関東地区で今も続く正月恒例の大学(箱根)駅伝。まさに新年の風物詩のひとつに数えられるまでになっている。正式には、「東京箱根間往復大学駅伝競走」で、1920年より毎年1月2日と翌3日の2日間にわたり行われる。回を重ねて歴史を語り継ぐイベントに位置づけられている。

そのキャッチフレーズの中で、強く心に残ったものがある。2003年の「前へ前へ。ただただ前へ。信じて前へ。迷わず前へ。」の言葉である。ここ数年、企業人の口から聞こえてこなかったフレーズではないかと思う。

何を信じればよいのか、迷い道に入り込んだかのような、出口のはっきりしない経済環境の中にあって、なおさら萎縮したように行動を起こそうとしない状況。前例がない・・・だから“やらない”では、いつまでたっても迷い道のままではないか。既に、先例となるビジネスモデルは、世界のどこを探しても無いと心得るべき時代である。これからつくりださねばならない。歴史は、誰かが踏み出した一歩から始まるものである。

小さな一歩だが、進み行こうとした強い意志と勇気を感じさせる言葉。次へのバトンを渡す相手が待っている。その一区間に自らの最善を尽くす。引き継がれたバトンが、ひとつのコースを繋ぎ、線となって形を成す。各パート(区間)での成果が全体に影響を及ぼす。そのために選手の能力を見極め、適材適所を図る・・・。経営の組み立て手順にも似たプロセスをもって、駅伝競技は完成する。

マーケティング現場においても、ただ闇雲に前に進むことが正しいわけではない。競争計画を練り、人を配備し、その能力がいかんなく発揮されるよう検証(練習)を続ける。そして、後は実行の一歩を踏み出す。出口が見えない・・・と嘆く前に、小さなことでも良い、何がしかの目標を持って、自らを信じ、仲間を信じて一歩を踏み出すことが必要である。

ビジネスは、ゴールの明示されないマラソン・レースでもある。今を生きるマーケターには、「前へ前へ。ただただ前へ。信じて前へ。迷わず前へ。」の気概を持ち、今世紀の歴史を刻むマーケティング・モデルを繋ぎ始める志が問われている。

Management Partner Staff
清野 裕司

旬刊独白-47

企業を評価する尺度は、「良い」企業から「善い」企業へ。

「会社の寿命:盛者必衰の理」が日本経済新聞社から上梓されたのは1984年8月。「会社の寿命は30年」と、当時センセーショナルな話題を投げかけた。
そして、90年代に入ってからは、地球環境やリ・ストラクチャリング(人減らしではない企業再構築)を主題にした、「環境に良い会社:地球に優しい経営の条件」(91年11月)が、さらに「強い会社:勝ちパターンを描く個性派企業」(94年7月)が上梓され、企業経営に対するさまざまな視点を提供してきた。

書籍のタイトルは、ある面その時代時代の世相や注目テーマを取り上げている。その言葉には、かつてより日本企業を評価してきた尺度が見え隠れしている。基本は「体つき」をベースにしているように思える。つまり、体格(企業の規模)であり、体力(経営の資源)、そして体質(組織の風土)の3視点である。

企業の経営目的を経済的な価値増殖におけば、そのような判断も受け入れられよう。しかし今の社会環境にあって、果たしてそのような定量的な尺度で企業の行動を見ることが良いことなのかという疑問が浮かんでくる。企業を「法人」というように、人格を持った集合体と考えると、人を見るときに、その人の「体つき」だけで判断をするかどうかを問うてみればよい。それだけではなく、その人の「人となり」も知ろうとするのではないか。先述の「体格・体力・体質」に加えて、その企業ならではの「体(てい)」とでも言うべき視点であろうか。

その基本は、「良いか悪いか」といった相対的な尺度から、「真・善・美」のまことを持った「善い」行いとは何かを考え、社会・顧客と共に未来を創造し、価値を生み出す力を評価する時代になっていると捉えるべきではないだろうか。

PDF:企業には顔がある

Management Partner Staff
清野 裕司

旬刊独白-46

「何だろう(?)」「なんだっ(!)」「何~んだ(~)」が大切。

日本の若者の国語力(読解力)が、先進諸国の標準から見て落ち込んでいるといわれている。自らの頭と言葉で、自らの考えをまとめるクセが幼い時から累積されぬままに成長しているのが現実のようである。スマホとの早くからの付き合いで、情報の受信者になってしまっているのかもしれない。この先の日本語がどうなるかということよりも、意志の疎通と状況の共有の中で営まれる、日常の生活自体がどのようになってしまうのかと考えてしまうことがある。
最近の小学校では、教科書に書かれた文章を、教室にいる同級生と声を揃えて読むということをしていないようだ。言葉の持つ面白さや表現の楽しさを知るのは、耳から入ってくる言葉である。声に出して読み継ごうとして、ふと読めない文字に出逢ってしまい、口ごもる瞬間。その瞬間に何となく難解な漢字が読めてしまうことがあるもの。前後の文脈から読み解く言葉の持つ不思議さとの遭遇である。そのような体験もないままに成長の過程を踏むと、いつ脳を使うことになるのだろうか。与えられたあるひとつの解答と言われる道筋を、さもそのことが正しいように、何の疑念も抱かずに丸呑みをしてしまうのだろうか。かえって危険ではないかと思える。一人ひとりが持つ、人間としての思考の広がりや発想の豊かさを摘み取ってしまうことになるからである。

自分の目の前に現れた現象に「何だろう・・・」の「?(疑問符)」を持たぬ様相は、人間としての進歩を止めてしまうのではないかと思う。その現象が理解できそうな瞬間での「何だっ・・・」の「!(感嘆符)」の時を経て、自分なりの納得の解を得て「何~んだ・・・」と腑に落ちる。理解をすることの瞬間であり、何とも感動的な気持になる時でもある。そのような、驚きや感動をもたぬままでは、進化の節目のない、つるっとした頭になってしまう。思考停止の頭である。

最近の若者が無表情なのも、そんなことが原因なのかと、つい頭をひねって余計な節目がまた出来てしまいそうだ。

Management Partner Staff
清野裕司

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