ビジネス徒然草37

ビジネス対応は、一人ひとりの「意・志・気」により変化する。

何かを成し遂げようとした時、人は不安に駆られることがある。今のままで良いのか、他にもっと良いやり方があるのではないか。確認する術を持たず、今までに自分が知り得たことを基本に、もう一度筋道立てて、自分のやろうとしていることを説明しようとする。
そこに働く力としては、ある時は累積された個人的な知識がものを言うこともある。
しかし一方で、知識だけでは解決できないことがある。知識を活かすのは、本人の「意」であり「志」、そして「気」である。

「意」の一言

蓄積してきた知識だけでは、今起きている現象を説明することが出来ず、あの時に、もっと学んでおけば良かったと反省することもある。後の祭りである。そのような時に大いに発揮されるのが、本人の意識である。過去は問題ではない。今起きている現実にどのように対処しようとするのかの、自分自身の意欲や対応の姿勢を問われているのだと、はっと気づく。すると、それまでに思いもつかなかった方法が浮かんでくることがある。誰かに習った方法ではない。自分自身が編み出した道筋である。

理屈だけでは解決できないことが多く登場してくるのが、ビジネスの現場である。このような施策を展開すれば、顧客は間違いなく動いてくれるはずだと思うのだが、その通りの結果が生まれてこない。予期せぬことだらけである。そのような時には、過去に学んだことの、何とも脆弱なことかを思い知らされる。

単なる表層的な「知っている事実」よりも、心底思い込んだ「まだ見ぬ未来」を実現しようとする意識が、どれ程の力になるかを知るときである。マーケティングが、「学」として存在するのではなく「論」として存在するのも、そこに意味がある。体系的な枠組みを知ることだけが学問ではない。自分自身が実行する「未来への道案内」である。「意のあるところ道は拓ける」そして、「知はその道を飾る」と解釈したい。 

「志」の一考

ビジネスでは、一人ひとりそれぞれの心の中にあるものに大いに期待したい。未来に向けて描いているであろう自分自身の姿である。いつも、自らの心が、どちらの方向を向いているのかを確認したい。

心が指す。まさに「こころざし=志」である。何となく茫洋とした意志かもしれない。若者の間では「自分探し」という言葉も聞く。自分が何に向いているのか分からないので、固有の職を持つことなく、自分の可能性を探すと言う。しかし、考えをいくら巡らせたところで、自分自身の実体が浮かんでくるとは思えない。先ずはやってみることではないのか。

好きなことを一生続けられると幸せ、との言も聞く。しかし、志は決して好きなことばかりを迎え入れてはくれない。嫌なこともある。意に沿わないこともある。ただ、嫌だと思ったことも、次なる自分を生み出す術と心得た時に、嫌なことではなくなる。自分の心と会話をしたかどうかが問われる。

「心こそ、心惑わす心なれ。心に心、心許すな」と昔から言われる。心が指し示す方向を持った自分との出会い。心してその時を大切にしたい。

 「気」の一文

ビジネス環境では、気遣いも多いことだろう。気疲れから、気温には関係なく風邪をひくケースもある。ただ、ビジネスは人と人との関係によって成り立つ。それだけに気配りも必要である。どのような人に対しても、自らの気概を見せながら気後れせずに立ち向かって欲しい。余り気負うと運気が落ち気味の時には気落ちしてしまうことになる。

気兼ねをしなければならない場もある。気軽に話し掛けてくれる人もいるだろう。気障(きざ)な人もいる。ただ、ものは考えよう。気持ちをしっかりさせていれば、気合が入るもの。たまには気晴らしに気の会う仲間との酒席も良い。和気あいあいとした中で気勢をあげることだろう。そのときの空気を読み込みながら、気宇壮大な未来を描いて欲しい。酒気を帯びていても気品ある態度は、気分を盛り上げるものだ。

「気」は人の精神が外に出る様子をいう。景気の良い話が聞こえてこないビジネス環境ではあるが、元気な振る舞いは、気骨を感じさせるものだ。根気よく意気を感じさせる日々を送りたい。若気の至りと言えぬ歳を重ねた今、改めて「気」を高めて気づきの一文。

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清野 裕司

ビジネス徒然草36

「やさしく」伝えること。それが「むずかしい」。

私の大好きな小説家(劇作家・放送作家)の一人である井上ひさし氏が遺した言葉は数多くあるが、なかでも日常の仕事を通じて、われわれマーケティング・ビジネスに携わる者が心しなければならないのが、次の言葉だと思う。
 PDF:井上ひさし氏の言葉
その文脈から、まさに「むずかしいことをやさしく」伝え、かつ諭してくれていると思っている。そのような思考の中、他人に何かを伝えて記憶して貰う場合、3つにまとめて発信すると強く情報が刷り込まれていくように感じる。

旧来よりビジネスの世界でも「現場・現物・現実の3ゲン主義」とか「報連相」の重要性、生活家電「3種の神器」「昭和40年頃の3C:Car/Cooler/ColorTV」と3でまとめられたものが多くある。私も講義・講演の際、記憶にとどめて貰おうと3つにまとめて伝えることがある。

「マーケティングは「視点・視野・視座」の3つの眼が不可欠である」「市場には「交流・交換・交感」の3つの交わりがある」「変化を見る眼には「解析・解釈・解説」が必要である」「人の人生には「生命・運命・使命」の3つの命が働いている」・・・等々。御三家・三羽がらす・日本三景・三筆/三蹟と、日常生活の中にも多く「3」は登場してくる。そう言えば東京タワーの高さは333mであった。

かといって、何でも「3」にまとめることがやさしい伝え方に通じるわけでもない。この2年強、よく耳にする「三密」。さて、その「密」は何であったか、ふと思い出せないこともある(密閉・密集・密接だが)。

大切なことは、繰り返し、かつ表現を変えるなど、やり方も多岐に考える必要があると思っている。

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清野裕司

 

ビジネス徒然草-35

「講師」としての振る舞いは個人的な「芸」にも感じる。

複数の方々の講演が続いている、あるテーマについての研究会や情報発信の会で、時折、自分に与えられて持ち時間をオーバーして話しされる方がいる。2~3分ほどの延長であれば、ただその本人のちょっとしたタイムキーピングのミスとも考えられる。しかし、そうではないケースに出会うことがある。明らかに確信犯である。当初予定を、10分、15分と延長している。次に控える講演者の顔にも苛立ちの気が漂う。受講している方々も、何となく落ち着きがなくなってくる。

ほぼ20分ほど予定をオーバーして話し終え、おもむろに一言「これ以上聞きたい方は、『私の著書』をお読み下さい」と。自分の次の演者を簡潔に紹介して終わる。次の方が演台の前に立つまでの休憩時間は、当然短縮される。外部との連絡時間が取れなくなってしまう。今は減ったであろうが、喫煙者には辛い、休憩時間の短縮である。

そのような機会に同席をする際に私が思うことは「今日の講演者は素人だな」ということ。
プロを標榜するのであれば、その話の内容よりも、細やかな振る舞いに目が行ってしまう。聞いている側も、限られた時間のなかで、難しい理論の解説を聴こうとは思っていないであろうし、一つ二つ、日常の会話の中で自分でも使いやすい言葉やキーフレーズが大きなお土産になるのではないだろうか。

セミナーや講演会のテーマも、時々で注目されるものは異なる。流行物のようなものである。「ポストコロナの社会を読む」「ITを生かした経営」「DXの活かし方。その事例」「2025年の東京を夢想する」・・・といったようなことが、2022年の中心的なテーマであろうか。
そもそも私は、講演や研修会の講師の立場は、落語家や芸人の演じることと同質だと思っている。落語の聞き手からすれば、一つ一つの話の大まかなストーリーは、たとえ知っていたとしても、すべてを知っているわけではない。同じ話を違う落語家から聞くと、全く違う話を聞いているような錯覚に陥ることがある。

今までに自分自身が講義や講演を通して、講師を担当する際に強く意識していることを10のポイントに整理をしている。以前も掲出したことはあるのだが、改めて「ビジネス徒然草」で取り上げてみた。

講師十訓

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清野 裕司

 

ビジネス徒然草-34

「マーケティング頭」を鍛えるのは、スキルではなく「センス」である。

徒然草33に、思考のフレームワークを紹介した。同質的なものではあるが、思考のための別のフレームワークを掲出しておこう。
企画編集基本の3スタイル

そして合わせての案内になるが、今後は別のカテゴリーをつくり(予定では「風の書庫」とするつもり)、思考を描くためのフレームワークにとどまらず、市場分析の成果や企画提案書も掲出していきたい。

自分の想いとしては、ただ昔を振り返るのではなく、今に活かせるものを考え続けていたい。「学ぶ」は「真似ぶ」を語源とするという。他者(社)のものを真似してみることによって、自らの思考の幅も広がるというもの。
思考する・発想する・企画をする・・・・等々は、整えて纏めるためのスキルはあるかもしれないが、多くは個々人のセンスに依拠すると考えている。センス、つまりは感覚である。絵画を見て感じること。音楽を聴いて思うこと。人それぞれである。
ただ、瞬間的な想いは、書いたり、描いたりしておかなければ忘却の原野に置き去りにしてしまうことになる。

水野学氏が著した書に「センスは知識からはじまる」がある。マーケティングを、単に分析のための方法論としてのみ捉えてしまうと、ある特定分野の技法に磨きをかけるスキルアップに終始してしまう恐れがある。
マーケティング力の基本は「センス」であり、そのためには幅広い知識が必要である。マーケティング力とは、「限りなく際限ない雑学」を身に付けることでもある、と私は考えている。


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清野 裕司

 

ビジネス徒然草-33

「思考」を整理し気づき力を高めるテンプレートを持っていたい。

思えば多くのプロジェクトに参画する機会を頂戴してきた。その数を数えたところでさしたる意味をなさないが、ほぼ3,500位のプロジェクト数であったかと思う。分野も当然だが多岐にわたることになる。今でいえば、BtoB/BtoCという分け方になるのだろうが、かつては生産財・消費財のメーカー/商社/小売といった分け方で見ていたこともあった。
基礎的な研究分野への参画機会は殆どないものの、研究すべきテーマの設定や研究の成果が現れたのちに、どのように商品・サービス化を進めるべきかについてのプロジェクト参画も多くあった。
内容はもちろん異なるのだが、私のようなマーケティング・スタッフに求められることは、プロジェクト・ミーティングの内容を整理して、
メンバー間での共有をサポートする。あるテーマについて文献等で詳細情報をさらに収集分析する(往時はネットでの検索などの手段はなかった)。そして今後やるべきこと、解決すべきことを整理し、未来に向けた企画書に取りまとめること。

そのために必要なことは、自らの思考を整理するフレームワークを持っておくことである。企画書に取りまとめる時も、何をどのように書く(描く)べきかを、まずは自分の頭で整理しておかなければならない。
今までに多くのフレームワーク(枠)を描いてきた。その一部を順次ローンチしていこうと思う。使えるようであれば、自由に活用頂きたい。

企画書テンプレート

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清野 裕司

 

ビジネス徒然草-32

「慮る」心を持ち続けてMy Businessを終えたい。

30歳代の半ばにオフィスを立ち上げ、固定的な自分のワークスペースを確保しながら、いかにして継続的な仕事が得られるのかを考え続けてきた。

以来40年の時を刻み、今や70歳代の半ば。多くの時を刻んできたものと改めて感慨にふけることもある。1年前に、固定的な自分の城ともいうべきオフィスを出ざるを得なくなってしまった。外的な環境のせいにするのはいかにも逃げ口上に思えて、今まで口外することを控えてきた。しかし、延べ3年にわたるコロナの経済活動に対して与えたインパクトは並みのものではなかった。

ちょうど自分自身のBusiness Lifeの幕を下ろす頃とタイミングが一緒になってしまったが、私のビジネスは、直接目の前に対象者がいることを前提にしたビジネスモデルである。その基本が出来なくなってしまったのだから、閉幕もやむなしかと言い聞かせながら、今までとは全く異なる「コワーキングスペース」の利用会員となって、現在はゆるりとした気分で仕事をしている。

専門性を持ったビジネススタッフを集団化しようと開設した株式会社マップス。明快な形にはならなかったものの決算40期での閉鎖。長きにわたる時間を過ごしてきた。今もなお、マーケティング・ビジネスの世界に身を置くことができていることを幸せに思いつつ、自分の周りのスタッフの言動を見ている。

そこには時代の変化だけではない、「自己中心社会」に生まれ育ったかと思わせる輩に日々出会っている。周りを見ることをしない。他者に対する当然の態度なのか、挨拶らしき姿勢が見られない。会話の声が大きくノイズになる。PC越しの会議の折も同様である。周りに思考している人がいようがお構いなしである。
このような社会環境は、いつから形成され始めたのであろうか。少なくとも、自分自身が育ってきた昭和のビジネスモデルでは、常に周りを意識した「自分」がいたように思える。おどおどと自らを引いてしまうようなことではなく、あくまでも自分を中心にする考えには違いはない。しかしそこに、自分を取り巻く周りがいた。いや、あった。

どうも今の時代のビジネススタイルに周りを思い遣る心が乏しいように感じてしまう。「慮る」という漢字自体を読むことができるのだろうか。いま、私の近くで大声を出しいるあなたには。

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清野 裕司

 

ビジネス徒然草-31

眼光鋭く意志を感じる人に出逢いたい。

女性との関係をスキャンダラスに言われる老政治家先生。長期にわたってトップの座にいたにもかかわらず、今の時代に蘇って、アドヴァイスならぬ私論を押し付けている元トップの政治家先生。パパ活動が盛んな、個人評価を得ていない、日本では比較的若い政治家先生。受けを狙って発した言葉が、ギャグにもならず、爺さんギャグとも言えず、聞かぬふりの方がよかったと思わせる、元国家の金庫番大臣だった大物政治家大先生。我が国有事の時に、どのような対応をしてくれるのかと不安だけを漂わせている防衛関係のトップの大臣先生。
どれもこれも、一旦は消えて貰った方がよいのではないかと思っている人々である。そこに、明快な意志も未来志向の眼光も感じさせることがない。

ただひたすらに、人の書いた原稿を間違いなく読み続けることこそは重要な自分の任務であり、自分の言葉での発信などは考えられない、内閣官房の先生。私は、先生の顔を正面から見たことがありません。見えてくるのはいつも先生のメガネの枠だけです。
政治家という職業は、それほどに偉い職業なのだろうか。顔はもちろん、名前すら知らぬ人に、自分は投票する勇気は持たない。その人の人となりを知りたい。
その心に滾るものは、目に出るような気がする。態度にも日々のふるまいにも出てくるものである。年の差もジェンダーの差もない。未来を見据えた人に出逢って、共に未来を思い描いていきたい。


70代の自分が期待するのは「40~50代」の未来への目を感じさせる輩である。今のところ、一人として出逢ったことがない。悲しい。

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              清野 裕司

ビジネス徒然草-30

言葉を紡いで人に伝えるためにも「源流」を辿る。

私にマーケティング・マインドを注入して下さり、その面白さや難しさを教えて下さった恩師は、慶応義塾大学名誉教授の故村田昭治先生である。自分にとって、人生最大の出会いとご縁を頂いたと、今も強く思っている。
先生のすばらしさは枚挙にいとまないと思えるが、中でも人に伝える(教える)際の言葉遣いの大切さを教えて下さったことかと思う。それまでに聞いたこともないような単語が、マーケティングを学び初めのころには数多く飛び出してくる。その定義を知りたければ(スマホもない時代)、文献を読みこんで自分のレベルを承知することである。併せて、日々の振る舞いや小さな心がけを積み重ねることで、他人への注目も増し、世の中の変化に敏感にもなるものだ。

先生が学生の私に伝え諭し導いて下さった文字を自分なりに解釈して、その後の半世紀近い社会人生活を送っているように感じている。
遺して下さった文字の数々の、ほんの一部を紹介しよう。

「志」:将来に向けて自らの心が指しているのが「こころざし」。自分は常に近い将来何をやりたいかを考えて行動しろ。
「想」:「思う」のは自分の脳を示したに過ぎない。考えて思うという行為は、高い木に登って目を未来に向けることだ。
「拓」:仕事には「こなす」と「ひらく」の二つのタイプがある。「こなす」は「熟す」という字になる。何事も継続することだ。だが、それだけではない。新たなものに挑戦しろ。それが「拓く」だ。
「雑」:今は無用と思えるものにも積極的に挑戦しろ。雑用や雑役と言われるものに、仕事の本質が隠れている場合が多い。どんなことにも積極的に取り組め。
「挑」:何事もまずやってみることだ。そうすると、自分のできないことが良く見えてくる。やりもせずに、とやかく評論して結論付けることはよせ。
「慮」:常に相手のことに思いを寄せるようにしろ。「おもんぱかる」という言葉がある。自分一人の考えを押し付けるのではなく、他者の意見も聞き入れることだ。
「優」:本当のやさしさを身に着けろ。「やさしい」というのは、自分に対しては「厳しい」ことを意味している。常に自分のレベルを高めることを考えろ。

ごく一部のものに過ぎないが、20代の自分が大きな刺激を受けた文字のいくつか。今も、往時私に言われた先生の言葉遣いが聞こえてくる。

Management Partner Staff
清野 裕司

ビジネス徒然草-29

「街に出たなら看板を見る」を今も続けて。

株式会社マップスの草創期には、大学でマーケティングを学んでいたり興味を持つ学生がオフィスに出入りし、「学生スタッフ」として共に頭と体に汗をかいていた。百貨店店頭におけるブランド商品の品揃えの具合や、ガソリンスタンドでの給油以外の人的なサービスの内容などについては、彼らと共に体に汗して駆け回った。また、研究者を交えた多様な研究プロジェクトでは、その議論内容の議事録づくりで大いに頭に汗をかいて貰っていた。

そんな彼等に、年長者である自分が都度思ったことやマーケティング思考に必要な態度や行動を語った語録がある。「学生スタッフへの思考の言葉」である。その中の一つに「街に出たならば、常に看板を見ろ」というのがある。

今も実行していることだが、今という時代に何が注目されているのかがわかるものである。特に旧来からある商店街などにあっては、数か月ぶりに出向くと店並が変わっていることに驚くことがある。少なくとも3年ほど前までには、これほど多くのマスク専門店が並ぶとは思いもよらなかった。ドラッグストアの林立にも目を見張る。数メートルおきに並んでいるところもある。薬をというよりも、化粧品や衛生用品、健康食品、日用の雑貨小物を購入する拠点になっているように見られる。

勿論、街には多くの看板に限らず、ポスターや店頭での客の呼び込みの声も聞こえてくる。飲料の自動販売機では、「100円」と大書した印が目に付く。同じ缶コーヒーが、こちらでは130円、あちらでは120円、しかしこの自販機で買えば100円、と価格の相対的な「安さ」を大きな価値として訴えかけている。であれば、すべての飲料が100円なのかと思えばそうではない。何種類かがある中での数本が差をつけている。

小さなことも、時代の表現と思って見ていると、いろいろなことに気づいたり感じたりするものである。ロシアの動きも影響の一つに加わるが、多くの生活用品の値上げが続いている。にもかかわらず、給料はさほどの上昇にならず家計を圧迫し続けている。相対的に低廉なものに価値を見出すようになり、価格の差が競争要因として大きな意味を持つようになる。

提供者側からすれば、原材料費や物流費などが高騰し、従来の価格ではやっていけなくなり、「やむなく値上げ」の看板も見えてくるようになる。どうにも今の街角には、明るい光が見えないままに時が刻まれていくように感じる。

Management Partner Staff
清野 裕司

ビジネス徒然草-28

オフィスMAPS40年の軌跡は奇跡の時に思える。:未来への想い
MAPS Foreverということ。

企業経営の様々な分野で求められる多様な知。
スタッフが持つべき能力には、多岐にわたる知の蓄積がある。
学ぶのは上からの指示によるものではなく、常に寄り添うような
パートナーの立場で思考を巡らせる行動の具体化である。
経営パートナーとしてのスタッフ=Management Partner Staffの意志と行動は、カタチになって永遠に
輝き続けると信じる。

PDFでご覧ください:未来への想い

※40年の時々の強き想いは、年度方針に綴ってきた。

Management Partner Staff
清野裕司

 

 

ビジネス徒然草-27

オフィスMAPS40年の軌跡は奇跡の時に思える。:⑤終章
「辞める」と「止める」。音は同じだが心は異なる。

今、ビジネスプロジェクトに参画した場合の殆どで、私が一番の年長者になる。人生100年時代とは言え、50代60代とは明らかに身体に残る疲労感の違いを実感する70代である。時の流れを止めることはできない。マーケティング・スタッフ業に「引退」はないと心してきた。プロジェクトの声がけがなくなれば、自ずと「引退」ではない「終幕」である。
会社勤めをしていた同世代の多くの友人は、ある年齢に達すると「定年」という制度をもって、その組織や機関を「辞める」ことになる。その集団から離れ、当然、それまでの職務からも離れるのだから、辞することがやめることになる。

そしてその後は、「第2の人生」と称して、自分の趣味を活かしたり、今まで出来なかったことに挑戦したりという、何となく幸せ的なシーンが描き出されることが多い。世の中の全員がそうだというわけでは勿論ないが、(私もそうだが)団塊世代の第2の人生を定式化して語っているケースが
多いように感じる。
してみると、私のような立場の者はどうなるのだろうか。

組織内の一員ではあるが、その組織は自分が代表者で、自分が創設した会社である。「辞める」というには当たらない。あえて言えば「止める」ということになる。まさにオフィス共々での終焉である。ではその後は、ということになる。

そもそも私は、社会人になった時から、少なくとも10年後には組織を離れて起業しようと考えていた。会社をつくろうと思っていたのは10歳の頃からだが、具体的に何をするということまでには、なかなか思いが巡っていかなかった。そこで自分に時限を示していた。組織にいるのは10年。11年目からは、その組織を「辞めて」次の人生デザインの道をつくろうと言い聞かせていた。

結果的には、延べ11年弱の組織人(サラリーマン)人生だった。そこから組織を離れての第2の人生。私は今第2の人生を歩んでいることになる。してみると、今の状況から離れていくことは、第3の人生を描くことになる。なかなか「辞める」ことにはならない。であれば「止める」か。

自分自身が「終生一マーケティング・スタッフ」と言っているのも、止めることは、すべてを止めることになってしまうからである。
今なお、なかなか「やめない」でいる。

Management Partner Staff
清野 裕司

ビジネス徒然草-26

オフィスMAPS40年の軌跡は奇跡の時に思える。:④麹町篇

半蔵門のオフィスに移ってからは、それまでにない多くのプロジェクトに参画をし、このまま更なる企業規模の拡張も考えられる、といった未来を幅広に捉える思考が私の胸に広がっていた。
業容の広がりは、それだけスタッフも増え、管理費や人件費の拡張が想定される。会社を経営するということは、とどまることのない業務を社に持ち込んで、扱い高を増やし、個々人の成長を支えるのが大きな仕事なのかとも思った。休まるという時間が乏しくなるものだということを実感して、土曜日は当然のように執務の日になっていた。

しかし、2007年~08年のリーマンショックによる企業行動の停滞感もあり、直接の影響ということではないものの、それまで当たり前に行われていたプロジェクトの突然の中止や延期が相次いだ。それでも変わらぬ志でスタッフ8名は皆元気に動き回っていてくれた。その間に私は、ビジネス塾の構想も広げて、併せて出版用の原稿も積極的に書き綴っていた。しかし状況は好転しなかった。

社員スタッフ全員とのミーティングを何度も何度も繰り返した。私は「雇用は維持する。会社をたたむことはしない。しかし、今までと同じような経済状況を維持することは、ここ数カ月難しくなりそうだ。どう判断するかは、一人ひとりの意志に委ねる」と伝えた。何人かのスタッフは自分自身の居場所を変えていった。その折に、昨年急逝してしまった私のアシスタントから「自分が持っているお金は、すべてMAPSから頂戴したもの。会社が苦しんでいるのですから、このお金を使って下さい」との申し出があった。返答することもできず、ただたたずんでいる自分がいた。そして決心した。「少し小ぶりなオフィスに移転して、経営効率を高めよう」と、麹町のオフィスへと移転を決めた。

2009/11/02 09:27

半蔵門も住所としては麹町1丁目。それが4丁目に移る。「麹町」にこだわったのは、地方に出向いても、皇居近くということもあるのか知名度が高く、イメージも高質だったからである。4カ所目のオフィスである。

新たな気をもって、1月11日と1並びの日に引っ越しをした。外部に書庫となるスペースも借りてはいたが、やはり1万冊余の書籍をそのまま引っ越すことは難しかった。引っ越し前には「100円市」や「重縁市(10円)」と銘打って、多くの方々に買って頂き、数千冊は処分をし、何とか半分にして移転。書籍はもちろんだが、それ以上に、それまでの約3,000件近いプロジェクト実績で積み重ねた資料や企画がある。できるだけストックをし、これからのアーカイブスにしていった。
その年の年始の想いは「新起業:Marketing Consultant With Archives」である。

プロジェクトのタイプは、多くの知を集めて実行するものに変わりはないが、学習するスタイルのものが増えていった。新たな時代への準備である。
株式会社マップスも、変わることなく学習を続けて今に至る麹町オフィスであった。

Management Partner Staff
清野 裕司

ビジネス徒然草-25

オフィスMAPS40年の軌跡は奇跡の時に思える:③半蔵門篇

個人の独立・創業から数えて15年。今のままで安住するか、更なる拡大・成長で、会社としての「生長」を図るか、答えは一つしか準備していなかった。新たな生長のステージに向かうことである。

取り組むべき先も増えてきた。特に私は会社としての成長の道を止めないために何をすべきかを考えると、プロジェクトを依頼してくる企業との日常的な繋がりをどの様につくるのかが大きな課題になってくる。つまり、モノを持たないコンテンツビジネスの営業活動を、自社で人材も抱えながら実行するのかどうかが問われるようになってきたのである。そこで出した結論は「ヤドカリ」ビジネスに徹することだった。

幸いにして、大手広告会社や財団法人・社団法人との関係密度が、研究会や委員会の内容を取りまとめる作業が評価されたこともあって、緊密になってきていた。それらの団体や企業の会員社は何十万社に上っている。そこで取り上げられるテーマ解決のメンバーに加えて貰えれば、思考プロセスのノウハウも数多く蓄積されると考えた。ただ、それだけに産業・業界分野は実に多岐にわたる。食品に関する自分の生活に直接近いところもあれば、その団体が発行している業界関連資料をいくら読んでも理解できない企業のものもあった。

そのような多岐にわたる業界や企業である。やはり、営業力は外部に宿を借りることにした。そうすると、時代環境もそうであっただろうが、次から次へと様々なテーマと取り組むことができた。年間に150を超えてプロジェクトに参加したこともある。仕事は確かに先述の団体や企業から回ってくる。したがって、依頼者は二人(オーダーをする団体・機関か課題を抱える企業)ということではあるが、今までに一度として、そのような重層構造だとは思ったことはない。依頼者は課題を抱えている企業やその担当者である。

かつて私は身近なアシスタントに、MAPSは「企業の上に起つ企業」になろうと思っている。企業経営を外部から見ながら、様々な修正点を具体例も示しながら語れるスタッフ集団になりたいと語ったことがある。今も、集団という言葉は消えて個人になってしまったが、その想いは変わっていない。

社会全体の時は、今とは比べのにならぬほどゆったりとしていたようのは思えるが、資料類のやり取りがネットを通じたものになってからは、驚くほどの速さで情報の共有が進んでいった。一方で、会社には実行した案件や、最終のアウトプットをプリント物としてストックし、いよいよ参画したプロジェクトが2,000を優に超え、オフィス内の蔵書も10,000冊を超えてきた。

株式会社マップスは、渋谷・中目黒から、明らかな飛翔を遂げたと思っている。

 

Management Partner Staff
    清野 裕司

ビジネス徒然草-24

オフィスMAPS40年の軌跡は奇跡の時に思える。:②中目黒篇

創業して10年。まだまだ不安定さは否めないものの、出入りする学生スタッフの数も増え、渋谷のオフィスでは作業空間自体が狭くなってきてしまった。併せて、お付き合いをさせて頂く企業も徐々にではあるが増えてきた。このままの場所で、定例的な作業を繰り返すことでオフィスを維持するのか、あるいは、さらなる高みを目指して、若きスタッフと共に次代のマーケティング・スタッフ集団をつくるべきか。答えは後者にしかない。プロジェクト・ミーティングの移動で地下鉄日比谷線の利用頻度が最も高かった。そして、街自体が新たな時代に向けて開発を進めつつあったことを決断の背景として、オフィスを中目黒のクリスタルビル7Fにすることに決めた。まだ工事中のビルであったので、フロア階は自由に選択できた。広さは約80㎡だ。スタッフは、私を含めて7名。それに学生スタッフを加えると、ほぼ毎日10名ほどでスタッフワークを続けていた。

ここでも、実に多様なプロジェクトに参画する機会を頂戴してきた。今なお現役の商品として、小売店の店頭に並ぶものも多い。パッケージのデザインは多少変えているものもあるが、店頭に並んでいるそれら商品を眺めては往時を思い起こすことがある。また、1990年代の最後半にあたり、それまで量的な面でとらえられていたことを、量ではなく、より細やかにその内実まで捉えようとする市場の質を見直す調査も多くなってきた。想定ターゲットを集めての座談会形式、所謂グループインタビューが注目されていた頃である。その司会役(モデレーター)を年間100回以上は担当させて頂いたであろう。利用者や購入者、非利用者や非購入者の声を直接聞ける。それだけ自分自身のマーケティング感度も研ぎ澄まされ、リアルな生活者感覚が身についてきたように思える。
勿論、調査だけをやっていたわけではない。調査結果を読み解いて、新たな商品が参入すべき市場を考えることが多かった。マーケティングの教科書に書かれていた多くのモデルを実践する時代でもあった。
株式会社マップス40年の基礎体力をつけた時代だったようにも思える。

Management Partner Staf
清野 裕司

ビジネス徒然草ー23

オフィスMAPS40年の軌跡は奇跡の時に思える。①:渋谷篇

私がマーケティング・スタッフを生涯の職業と決め、そのさまざまな作業を実施する会社をつくろうと実動を始めたのが33歳。自宅オフィスやマンションを借りて、そこを作業場として捉えるのではなく、あくまでもオフィスを構えて株式会社として活動したいと思っていた。当初は、先輩が始めていたソフト開発会社の一隅にデスクのみを置かせてもらい、そこからが組織を離れての第一歩であった。
その後2年の時を経て、渋谷の一隅に45㎡ほどのオフィスを借りたのが35歳の時である。物理的なことは実現できるが、問題は、果たして仕事は作れるのか。しかしそこは何とか考えるもの。研究会のまとめや統計資料作成や、事業計画・広告企画・各種委員会委員の発言録作成・商品別売上の変化や広告費の変化・・・、といった資料の整理作業が仕事であった。

データや関連資料が多岐に渡ればわたるほど資料の枚数は増え、作業時間も増える。自宅に戻ることよりも、オフィスで朝日を見ることの方が多くなっていた。作業の効率化を思えば、どうしても人手が必要になる。大学で、マーケティングを学ぶ学生やビジネスに興味のある学生諸君に加わってもらい、アルバイトという立ち位置ではなく「学生スタッフ」という立場で大いに活動をしてもらった。

当時の学生が今や50代のビジネスパーソンもいる。親子2代にわたっての学生スタッフという者もいた。歴史は繰り返すものだ。複数のメンバーと共に、渋谷のオフィスで朝を迎えたことが、今も深い思い出になっていると、つい先日聞いたばかりである。

創業時の株式会社マップスは、そんな慌ただしい、不夜城のような環境の中で、「次はどうする、何をする・・・」を考えていた。子供の小学校入学の日にも、オフィスで朝を迎えたことが、今となれば虚しさを感じるほどの慌ただしい時が刻まれていた。

Management Partner Staff
清野 裕司

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